衝撃的なHIDEの死から綴られるYOSHIKIの半生。
10歳の時、父の自殺で負った心の傷――。深い悲しみからYOSHIKI少年を救ったのはROCKとの出会いだった。
小学5年生ではじめて聴いたKISSのアルバムに衝撃を受け、武道館で行われたコンサートを観に行ったYOSHIKIは決心する。
高校2年生の夏、小学校以来の幼馴染で親友、TOSHIと共に “X” を結成、練習に熱中する日々を送るYOSHIKI。高校卒業を間近に控えた冬休み直前のある日、すでに音楽大学への推薦入学が決まっていたYOSHIKIに、TOSHIが告げる。
「 いろいろ考えたんだけど、俺、大学へは行かない。 東京でロックを続けるんだよ。
上京し、インディーズバンドとして数々の伝説を打ち立てた “X” は、1989年、ついにメジャーデビューを果たす。ファッション、音楽性、そのすべてにおいて社会現象を巻き起こしたロックバンド “X JAPAN”。 しかし、TOSHIの脱退により、1997年12月27日東京ドームでのラストライブをもって解散した。 さらなる苦悩がYOSHIKIを襲う。 1998年5月2日、HIDE死去 ――。
HIDEの死を乗り越え、2008年に奇跡の復活を遂げた“X JAPAN”、そしてYOSHIKIは、今も疾走し続ける。
YOSHIKIへの100時間以上に及ぶインタビューを敢行、ノンフィクション作家の小松成美さんが10年の歳月をかけて完成させた渾身の作品。音楽への果てしない情熱、“X JAPAN”との絆、まさにYOSHIKIのすべてが込められた一冊です。
1982年、X(後にX JAPANへ改名)を結成。
それまで存在していなかった、特異かつ独自なヴィジュアル、極端な静と動が同居した、激しくも美しい音楽性はシーンに一石を投じたばかりではなく、後に「ヴィジュアル系」と呼ばれる全世界的な社会現象を伴う音楽ジャンルを新たに確立した。数々の伝説、記録を打ち立てたX JAPANは1997年に解散するが、1999年11月、YOSHIKIは天皇陛下在位10年記念式典のために奉祝曲「Anniversary」を作曲し、天皇陛下と15,000人のゲストの前でこのピアノコンチェルトを演奏した。これを契機に音楽活動を再開。2000年には「日本社会と文化に貢献した人物」として文部大臣より感謝状を受け、2005年には経済産業省からの依頼で「愛知万博」の公式イメージソングのプロデュースを担当。そして2007年、ハリウッド映画「SAW4」の全世界テーマソングにXJAPANの「I.V.」が決定。念願の世界デビューを果たすと共に、XJAPANは奇跡の復活を遂げ、08年3月、東京ドームでX JAPANの復活公演が行われた。
この公演は、当初2日間を予定されていたが、チケット販売を開始するや否や、YOSHIKIのオフィシャルサイトだけで2日間のキャパ10万枚を大幅に超える15万枚の応募が殺到。急遽追加公演を発表したが、3日間のチケットは瞬時ソールドアウトした。
そして、このXJAPANの復活を機に、YOSHIKIは世界を舞台に様々な活動を本格的に展開し始めた。映画では「カタコンベ」(アメリカ)、「REPO!」(アメリカ)、「GOEMON」(日本)のメインテーマソングと音楽を担当。その全ての作品において、卓越した才能を証明し続けている。また、09年1月には、香港でX JAPANとして初の海外公演を大成功に収め、現在もワールドツアー中。日本公演として、5月には復活後2度目の東京ドーム公演を予定している。この公演のチケットも、YOSHIKI関連の先行販売だけで、すでに予定販売数を大幅に上回る応募が殺到した。
X JAPANは現在までにアルバム・シングルにおいて2,100万枚以上、ビデオにおいて200万本以上のトータルセールスを記録、コンサートの動員数は100万人を超える。
また、90年代初頭からロサンゼルスを拠点に世界を視野に入れてスタートした、“第二のX JAPAN”と言っても過言ではないプロジェクト、VIOLET UKも同時進行中。
今、世界で最も注目を集めているロックアーティストである。
1962年神奈川県横浜市生まれ。会社員を経て、1990年より本格的な執筆活動に入る。人物ルポルタージュや スポーツノンフィクションなどに定評があり、歌舞伎を始めとした古典芸能や西洋美術、歴史などにも造詣が深く、 関連の執筆も多い。TVコメンテーターとしても活躍中。主な代表作に中田英寿(サッカー元日本代表選手)を追っ た『中田語録』(文藝春秋)『中田英寿 鼓動』『中田英寿 誇り』(幻冬舎)、『イチローオンイチロー』(新潮社) 『さらば勘九郎―十八代目中村勘三郎襲名』 (幻冬舎)『トップアスリート』(扶桑社)などがある。