デビルズ・ダイス 1の目 神はサイコロを振らない
  • 角川スニーカー文庫
  • 2月1日発売
  • 『デビルズ・ダイス 1の目  神はサイコロを振らない』
  • 著:いとうのぶき
  • イラスト:佐嶋真実

《プロローグ》

 かつて、物理学者のアルベルト・アインシュタインは量子力学に対する反論として、マックス・ボルンにこんな手紙を書いている。

 量子力学には多大なる敬意を持っている。しかしその理論はまだ完璧ではないと、内なる声が私に語りかけるのだ。量子力学は非常に有益なものである反面、神の秘密にはほとんど迫っていない。そう少なくとも私には、神はサイコロを振らないという確信があるのだよ……と。

 

 神はサイコロを振らない。

 ならば、この世に初めてサイコロを生み出したのは、一体何者なのだろう。

 神はサイコロを振らない。

 ならば、人にサイコロを振るよう仕向けさせるのは、一体何者なのだろう。

 

 神は、サイコロを……振らない。



         *



 予想通りの事だ、と才は思った。

 今日が退院日なのに誰も迎えに来なかった事も。アパートのドアを開けると同時に酒の臭いが鼻を突いたことも。そしてリビングから漏れていた笑い声が、自分の登場で一気に白けてしまった事も。全ては予想した通りの事だった。

「ただいま」

 一応の義務として、才はそう口を開く。ソファでふんぞり返っている中年の男が、不機嫌そうな視線を隠そうともせず、グラスに注がれたビールを煽った。ダイニングキッチンに立っていた女性は、ちらりと視線を向けたきり、また手元のフライパンをせわしなく振り始める。2LDKの狭いアパートの中は、酒の臭いと煙草の煙と野菜炒めの蒸気で吐き気がするほど澱んだ空気に満ちていた。

 こいつらの反応も予想通り、と才が思った時、男のソファにかしずいている少女が消え入りそうな声を奏でた。

「お、おかえり、才。早かったんだね」

 長く透き通った髪を持つ、十八歳の少女。才に似てすらりと鼻が高く、手足もたおやかに伸び、青白い肌は病的と思えるほどに光を放っている。一つ年上の、才の姉。白河彩だ。長い睫毛から覗く眼は、他の二人と違って濁りも汚れもない、透明な瞳だった。

「ああ。言っておいただろう? 今日が退院日だって」

「そうだっけ。ごめん、お姉ちゃん忘れてたわ」

 忘れるはずがないのに。見え見えの嘘に、才は心の中で苦笑いを浮かべる。ソファの男は呑み干したグラスを無言で彩の胸元に突きつけ、才に対しては気だるそうな眼光に敵意を乗せて睨みつけた。これも、予想通りだ。

「ったく、たかが盲腸程度で一週間も入院しやがって。いくらかかったと思ってやがるんだ! てめぇの金じゃねーんだぞ!」

 高校のセーラー服を着たまま、彩が瓶ビールを傾けて酒を注ぐ。学校から戻った後、着替える暇もなくこの男の相手をさせられているらしい。グラスを持っていない男の左手は、当然のように彼女の腰に回され、卑しい動きで這い回っていた。

「なに突っ立ってやがる。てめぇの顔見てると酒が不味くなるんだよ! とっとと失せろグズが!」

 言われなくてもそのつもりだ。才は無言できびすを返し、リビングから引き返して狭い廊下に出た。途中、風呂場の洗濯機にスポーツバッグの中の着替えを放り込む。リビングとダイニングキッチン。それに寝室が一部屋と、トイレ。後は突き当たりの物置がこのアパートの一世帯全てである。高校生の子供二人と、大人二人が住むには少し狭すぎる。

 だいたい物置に充てている部屋も、本当は寝室として使える構造になっていた。物置にせざるを得ないのは、考古学者の父の遺品が山のように残っているためで、これさえ処分すれば少しは生活スペースも増えるはずなのだ。

 引き戸を開けて才が物置に入る。ここが才の部屋だ。天井近くまでダンボールが積み上げられており、自由に使える空間は一畳ほど。カーペットの上にはミカン箱のような机が置かれている。床に座ったまま机に向かうスペースが、夜には布団を敷いて寝るスペースに早変わりというわけだ。まぁ一畳あれば生活できない事はなかった。さすがに姉である彩と一緒に使う余裕は無いから、彼女はいつもリビングのソファで寝ている。

「才。入るよ」

 鍵もかけられない引き戸が開く。彩だ。座っている時はあまり感じないが、こうして立ち姿を見ると、かなり長身で華奢な身体つきである事がよく分かった。扉を閉めて狭い部屋の中に身を寄せてくる。

「ごめんね才。本当は迎えに行きたかったんだけど、岡本さんがお昼からずっと呑んでて……」

「いつもの事だろう。それよりいいのかい? あの男を一人にしておくとろくな事にならないよ」

「トイレに行くって言ったからしばらくは大丈夫。本当にごめんね、やっぱり学校から直接迎えに行けば良かった」

「気にしてないさ。姉さんが着替えを届けておいてくれたしね。もう子供じゃないんだから、一人で帰ってこられる。僕なんかの世話をするより、あの男の機嫌をとる方がよっぽど大事だろう」

 腹立たしい事だが、それは事実だった。高校生ともなれば身体はもうほとんど大人と変わらない。あと数年すれば選挙権も得られるし、酒や煙草も楽しめるようになるし、車の免許だって取れる。

 だが、今の才と彩は大人ではない。どれだけ大人に近い存在であっても、大人ではないのだ。なぜなら自分で生活する事ができないから。

 親の稼ぐ金で着る物を授かり、親の稼ぐ金で日々の空腹を満たし、親の稼ぐ金で住む場所を与えられる。そんな状況にある限り、いくら身体が大人になっても、やはり才と彩は子供なのだ。親に生殺与奪を握られている『子供』に過ぎないのだ。

 だから才も彩も、あの男には逆らえない。あの女にも逆らえない。連中の機嫌をとって、息を潜めながら生きていくしかないのだ。

 もっとも、この家の家計は義母であるあの女……白河珠菜の経営するスナックの収入によってのみ支えられている。だから父親ですらないあの男が大きな顔をするのは筋違いなのだが、珠菜がそれを許している以上、この白河家の支配者があの岡本哲哉という中年の男である事実は揺るがなかった。

 児童虐待として訴えれば、あるいは事態も変わるだろうか。いいや無駄だ。珠菜が岡本の味方なのだから、二人には親権という名の強力な武器が与えられている。言い逃れようの無いほど明確な証拠でもない限り第三者が介入してくるのは難しい。それに何より被害者であるはずの彩自身が、本心はどうあれ、今のこの状況を受け入れているのだから、訴えても彼女を苦しめるだけの結果になるのは容易に想像できた。

「僕のことはいいから、もう行けよ姉さん。これから明日の予習を始めたいんだ。入院で遅れた分を取り戻さないとね」

 今は耐えるしかない。才も彩も子供なのだから。あと二年もすれば、才も高校を卒業して自力で働く事ができる。大学を出た方が就職は有利かもしれないが、とにかく生活基盤を固めて岡本や珠菜から逃げる事が最優先だった。

 子供扱いされる事は何も悪い事ばかりじゃない。特に岡本がまだ彩を子供と思っているのは実にありがたいことだった。奴が子供でなく、一人の女として彩を見るようになれば、それこそ取り返しの付かない事になるのだから。いつでも我が物に出来るとわかっているからこそ、果実が熟するのをじっと待っているだけであって、あの男は常に彩を欲望の対象としてしか見ていないのだ。

 大学進学などは後からいくらでも出来るだろう。就職して金を稼いで、自力で生活できるようになったら、どこか遠くの街で姉弟二人の新しい生活をスタートさせる。それが一番の目標だ。

 心配した通り、彩を呼ぶ岡本の怒鳴り声が狭いアパートに響いた。妾でも呼びつけているつもりか。何度も刻み込まれた畏れの記憶が呼び起こされ、彩が小さく身を震わせる。

「そうだね、才は賢いんだから、もっともっと勉強して大学に行って、立派な大人にならないと。邪魔してごめんね」

 一体何回謝れば気が済むんだ。彩は何一つ悪い事をしていないというのに。苛立ちにも似た理不尽な怒りを心の中に沈め、才はあの卑しい中年男の下へと姉を送り返した。腹立たしい。悔しい。

 ……カネさえ、カネさえあれば。

 本当にそう思う。

 高校生の身分では、アルバイトに割ける時間は限られている。かといって高校を退学して、まともな働き口がすぐに見つかるとも思えない。ツテも無ければコネも無いのだ。そんな子供が稼げる額などたかが知れていた。

 もし今すぐ自分たちで生活していけるだけの収入があれば、こんな家真っ先に飛び出していけるのに。彩にあんな仕打ちを耐えさせることもないのに。カネさえあれば。

 カネさえあれば。

 カネさえあれば――。

 

 いや。

 それでもあの男は追ってくるかもしれない。思い返せばあの男が……岡本が初めて才と彩の前に姿を見せた時から、奴の彩を見る眼は異常だった。まだその頃は父も生きていたから、二人は小学生くらいか。やがて奴は、才と彩の父親である白河和歳が留守がちであることにつけ上がり、徐々に白河家に居座るようになっていった。今となってはもう、岡本の視線が珠菜に向かっているのか彩に向かっているのか、本人にさえ分かっていないだろう。子供扱いしているといっても卑しい目で見ていることには変わりない。恐らくは、幼かった若紫を自分好みの女性に育て上げ、後に妻とした光源氏でも気取っているのだ。そんな岡本が簡単に彩を手放すとも思えなかった。

 もし奴が諦めなければどうする? たとえ自分たちが別の土地に逃げて新しい生活を始めたとしても、奴が執念深く追ってきたら? どこまでも彩を追いかけてきたら? 執拗なまでに二人の人生に割り込んできたら……いったいどうする?

「そんな事になれば、僕は奴を……」

 言いかけたところでふと我に返り、才はぴしゃりと両頬を叩いた。頭の中に浮かんだ邪念を振り払う。

 どうかしている。カネすら満足に持っていないというのに、カネで解決できない問題まで考え始めるなんて。そうだ、いくらカネを稼いでも法に触れるような真似をすれば全てが水泡に帰すのだ。世の中にはカネではどうにもならない事だってある。倫理の問題じゃない。損得の問題として、非合法は割に合わない行動だという事くらい、分かっているはずじゃないか。

 一週間の入院生活の間、珠菜の顔も岡本の顔も見ずに済んだ分、久しぶりにあの不愉快な顔を見て頭が混乱しているんだろう。馬鹿馬鹿しい。

 耳を澄ます。下卑な声で大笑いする岡本の声がよく聞こえた。あれだけ上機嫌なら彩もそばにいるはずだ。時刻はまだ午後五時になったばかりだから、珠菜は夕食の準備で忙しいに違いない。よし、今がチャンスだ。

 才はそっと引き戸を閉め、部屋の電気を点けた。壁も床も埋め尽くす勢いで、父の遺品が詰まったダンボールが山積みされている。そのほとんど全てが下らない考古学の資料や論文だ。才に対する嫌がらせという意図が無ければとっくに捨てられていただろう。

「確かあのノートは……ここか」

 ダンボールのトーテムポールの一つに手を掛ける。慎重に上から一つずつ下ろし、目当てのダンボールを取り出すと、埃臭い中身を取り出して選別していった。父の遺品を暇つぶしに眺めていた事がまさかこんな形で役に立つとは。

 才が探していたもの。それはごく普通の古びた大学ノートだった。白い表紙には表題などの記述は無く、内容も鉛筆で殴り書きされており、他人に見せる意図の無い研究ノートだった事が伺える。

 とはいえ考古学者だった和歳の研究ノートにしては、その内容はあまりにも不自然であった。黄ばんだページを一枚ずつめくっていく。書かれているのは、いずれもサイコロに関する記述ばかり。

 何々という条件でサイコロを振った時、一回目に出た目は何だったとか、二回目はこうだったとか、そんな意味不明な実験の数々を詳細に記してあるのだ。しかも不思議な事に、和歳はこの実験を行う際、必ず特定の二種類のサイコロのみを使い、普通のサイコロは比較実験以外では決して使用していなかった。

 一つは、《1》から《6》までの目のうち、《1》の目だけが《 》になっているサイコロ。これを和歳は『天のダイス』と名付けている。

 もう一つは、数字が《1》《2》《3》の三つしかなく、残りは《 》と《○》《×》というマークが描かれているサイコロ。こちらは『地のダイス』だそうだ。

 和歳の研究ノートには、この『天のダイス』と『地のダイス』に関する研究が徹底的になされており、所々に彼の所感が走り書きとして残っていた。考古学者の父は一体どこでこんなサイコロを手に入れたのだろう。どうしてこれらのサイコロの研究をしようと思い立ったのだろう。

 家族を省みずに考古学の研究に没頭し、学会から嘲笑された自説に固執し、当ての無い発掘調査のために莫大な借金を重ね……晩年は競馬や競輪といったギャンブル漬けになって自殺した、そんな惨めな男の秘密が、このノートに記されているというのか。

 ノートは最終ページまでは使われていなかった。最後の実験結果を書き記した後、和歳はミミズの這った様な字でこう書き残している。



『これはまさしく悪魔のサイコロ。人間の手に余るもの。何人たりとも、これを手にすべきではない。決して使ってはならないのだ。このサイコロ――、デビルズ・ダイスを』



 才はノートを閉じた。静かにそっと、机の上に置く。それから右手をポロシャツの胸ポケットに伸ばし、人差し指と親指で何か小さな物体をつまみ出した。

 半透明の、黒鉄色の立方体。一辺の長さは十ミリほど。角の部分は少し丸くなっており、転がりやすい加工がしてあるようだった。全部で六つあるそれぞれの表面には、血のような赤いアラビア数字が刻まれている。正確には彫刻ではなく、塗装……いや、立方体の表面がその部分だけ赤く染まっていると言うべきか。石か鉄のように重量感があり、硬さも十分であるが、その材質が何なのか、触れただけではちょっと想像できなかった。

 才の目の前の面に描かれているのはアラビア数字の《2》。その対面には《5》とある。《2》の右側の面は《3》、左側は《4》。才の親指が支えている底面には《6》と描かれていた。これで人差し指が抑えている上面に《1》とあれば普通のサイコロと同じなのだが、なぜかこの直方体には《1》の目が無く、《 》……即ち何も数字の無い空白の面があるだけだった。

『天のダイス』。

 そう、これは和歳が研究に使っていたサイコロの一つ、『天のダイス』だ。どういう経緯があったのか、才は今これを所有しているのだ。人間の手に余るもの。手にすべきではないもの。決して使ってはならないもの。悪魔のサイコロ、デビルズ・ダイスを。

「……デビルズ・ダイス、まさか本当に実在していたとはな。最初にこのノートを見た時は、父さんの頭がどうかなったものだとばかり思っていたが」

 改めてノートの一ページ目を開く。最初の研究は『天のダイス』のみを使った実験だった。

「いや、まだ分からんか。父さんの実験を僕が追試して、その正当性を客観的に確認するまでは、全てが父さんの妄想に過ぎないという可能性も否定できない」

 だがもしこの実験が全て本当の事だとしたら。

 その時は、デビルズ・ダイスが恐るべき魔力を持った、まさに悪魔のサイコロであると立証される事になる。この能力を上手く使えば、ありとあらゆる欲望を、願望を、希望を、一つ残らず叶える事も可能のはずだ。

 カネを稼ぐのはもちろん、カネで解決できない問題さえどうとでもなるだろう。法に触れるような事、非合法な事だってできる。非合法な事だって……。

「さぁ見せてみろデビルズ・ダイス、お前の力とやらをな」

 手のひらで『天のダイス』を弄んでいた才は、人差し指と中指でこれをつまみ上げ、軽く机の上に放り投げた。デビルズ・ダイスが才の指先を離れ、転がっていく。

 ……賽は投げられた。

 いま全てが始まったのだ。

 全てが、転がり始めたのだ。



         *



 神はサイコロを振らない。

 ならば、この世に初めてサイコロを生み出したのは、一体何者なのだろう。

 神はサイコロを振らない。

 ならば、人にサイコロを振るよう仕向けさせるのは、一体何者なのだろう。

 

 神は、サイコロを……振らない。







《1》 『地のダイス』



 類は友を呼ぶ、という言葉はあるが、時としてそれに当てはまらない奇妙な交友関係も、やはり現実には存在するものだ。

 白河才と山寺法地の二人もそのクチだろう。

 いずれもこの春から目城高校の二年生になった同級生だから、クラスも同じとあれば親しくなっても不自然ではない。だが二人のキャラクターはあまりにも対照的過ぎた。

 眉目秀麗な美少年にして成績も良く、常に沈着冷静でクールな優等生。それが二年一組における……いや目城高校全体における白河才の客観的イメージである。苦手な科目といえば体育くらいで、スポーツも含めて運動全般は全く駄目だったが、そんな弱さがまた母性本能をくすぐるらしく、女子における人気は不動のものであった。

 クールといっても人当たりが悪いわけではないので、特に男子から嫌われているという事もない。顔もよければ性格もいい、理想的な模範生というわけだ。しかしそれにしても、いくら男女共に人気があるとはいえ、一番仲のいい友人が山寺法地というのは、やはりどうにも一般人には理解を超えたものがあった。

「おう才! 久しぶりだな! 元気だったか!」

 才が登校するなり、真っ先に声をかけるのはいつも法地だ。教室中に響き渡るような大声をボリューム全開にして走り寄ってくる。

「一昨日も見舞いに来てくれたはずだが?」

「細けぇことは気にすんなよ。学校でこうして会うのは一週間ぶりだからな! 寂しかったぜ才!」

「わかった。わかったから抱きつくのはよせ」

 まとわりつく熊のように大きな身体をどうにか引き剥がし、才は自分の席に着く。外国人じゃあるまいし、会っていきなり抱きつくというのはどうなのか。既に見慣れた光景だからクラスの連中も動じないが、知らない人が見たら妙な勘違いをしかねないところだ。

 クラスメイトが一斉に、男女問わず才の席に集まってくる。一週間前、突然授業中に激しい腹痛に襲われ、そのまま救急車に乗せられて去っていった白河才が帰ってきたのだ。普段の人気から考えればこれくらいの歓迎は当然予想されたものだった。

 さすがにこれだけの大人数が押し寄せれば、法地も場所を空けざるを得ない。決して嫌われ者ではないが、好かれているわけでもない法地としては、それはクラスメイトに対するせめてもの配慮といったところだろう。

 一人一人と再会の挨拶を交わし、落ち着いてきたところでようやく才の席の周りにスペースが出来る。法地は自分の席……才の右隣に腰を下ろすことが出来た。

「相変わらず大した人気だなぁ」

「別に誇るようなものでもないさ」

 才は淡々と学生鞄を空け、教科書やノートを机の上に並べていく。こうして二人が並んでいるだけでも、両者の違いは歴然としていた。

 学校指定の詰襟学生服を、ホックまできちんと締めている才。対して前のボタンを全て開け放ち、ドクロの描かれた悪趣味な赤いシャツを露わにしている法地。髪型だって、サラサラした黒髪の才と比べ、法地は茶色に染めた髪を整髪剤でハリネズミの如く逆立たせていた。この二人が親友同士と言われて、すぐに信じられる人が果たしてどれだけいるのだろうか。どこにも両者に接点は無さそうだというのに。

 法地は自分の鞄からビニール袋を取り出し、そっと才に手渡した。

「才、ほら。一昨日頼まれた奴、持って来たぜ」

 受け取った才は怪訝な様子で眉をひそませた。中を見ると、クリアケースに入れられたCD……いやDVDが何枚か入っている。

「僕は一枚でいいと言ったはずだぞ?」

「遠慮すんなって。俺様が厳選した秘蔵のコレクションだからよ。どれ一つとしてハズレは無いぜ? いやー、しかしまさかお前からこんな頼み事されるなんて思ってもみなかったよ。長い入院生活で溜まってたんだなぁ」

 法地の言葉など耳に入れず、才はクリアケースを取り出して見比べた。どれもレーベルは無地で、記号の書かれたシールが貼ってあるだけだから中身の判別は出来ない。

「最初からクライマックスの物はあるか?」

「ああ、それならイイとこだけダイジェスト編集したのがあったから……確かこれだな」

「よしそれを一枚だけ借りる。他は持って帰れ」

「おいおい、そりゃねぇだろ。せっかく俺が無修正のコレクションから徹夜で選び抜いた……」

「徹夜がどうしたって?」

 二人の会話に突然少女の声が混じる。

「うわっ、びっくりした……。なんだカモかよ」

「カモって言うな! あたしの名前は加茂香奈よ! イントネーションに気をつけてよねイントネーションに!」

 腰に手を当てて頬を膨らませているのは、ショートカットの小柄な少女だった。学校指定のセーラー服を着ているが、スカートはかなり短く折り畳まれており、才の側の人間と言うよりは法地の側の人間に近いようだ。耳にピアスもしている。

 才から法地に押し返されたDVDのクリアケースの束を、香奈はいったい何だろうと腰をかがめて覗き込んだ。慌ててビニール袋に入れ、鞄に隠す法地。

「何よー、あたしには見せてくれないわけ?」

「うるせぇ、カモカモには関係ねぇよ!」

「ひっどー。何よそれ。ちょっと白河くん? 黙ってないで何とか言ってやってよ」

 香奈に水を向けられた才だが、彼はいつも通り肩をすくめてクールに微笑んでいるだけだった。才は法地以外の生徒と積極的に会話を交わすことはあまり無い。それでも結構な人気があるのだから、美形は何かにつけて得ということだろうか。そんな才の反応に小さく微笑んで、香奈は自分の席である法地の真後ろに腰を下ろした。

 と、そこでクラス委員長を務める女生徒が教室に入ってきた。ほぼ全員登校しているクラスメイトたちに向かって大声で指示を出す。

「みんなー、一時間目の日本史の授業は視聴覚室だって。すぐ移動してくださーい」

 生徒たちが途端にざわつき始めた。口々に文句を言い放つ。ニュアンスは様々だが、教師に対する愚痴という点ではどれも似たような内容だ。もっと早く連絡しておけよ、とか。どうせまたビデオ見せるだけだろ、とか。早くクビになれ、とか。

 日本史を担当している田沼聡志という男性教諭は、とにかく手抜き授業をする事で悪名高い三流教師だった。三回に一回は視聴覚室で授業を行い、何をするかといえば資料室に保管されている日本史用の映像ソフトをモニターに流すだけ。その間本人は椅子に座ったままいびきを立てて寝ているのだから呆れて物も言えない。

 しかも授業の最初に必ずテストをさせ、成績の悪い生徒をネチネチといたぶるのが唯一の楽しみなのだ。非常に陰湿かつ陰険。教師の質がどうとか、マスコミがうるさい近年において、よくも今まで生き残って来られたものである。ある意味賞賛に値する教師と言えるだろう。

「くっそー、視聴覚室でもやっぱテストはするんだろうなぁ」

「先週の授業も視聴覚室だったんだろう? あれが生き甲斐みたいなものだし、止めるとは思えない。テストと言っても簡単な選択問題だ。三十問程度なんだから、カンで書いてもそれなりの点数は取れるかもしれないぞ。お前のカンはよく当たるからな」

「無茶言うなよ。そりゃお前は満点の常連だからいいけどよぉ、毎回毎回あのジジイにネチネチ言われる身にもなれっての」

 教科書とノートを揃えながら、法地は大きくため息をついた。家の事情で一年生から進学クラスに入り、落ちこぼれになってからも母親に泣きつかれて一応進学を目指している彼としては、いくら嫌でも授業をサボるわけにはいかない。ため息の一つも出るというものだ。

「そうか。そんなに嫌か……」

 才はわずかに口元をほころばせながら、学生服の内ポケットに収められたサイコロを一つ取り出した。《1》の目が抜けている黒いサイコロ。デビルズ・ダイスの『天のダイス』だ。

「ならお前にこれを貸してやろう」

「何だ? サイコロ?」

「これはデビルズ・ダイスと言ってな、任意の数字を透視することが出来る悪魔のサイコロなのさ。まぁ論より証拠だ。騙されたと思って使ってみろ。次の日本史の授業は……明日か。明日にはお前は百点満点を取って田沼の鼻を明かすことが出来る」

「へぇ、悪魔のサイコロねぇ。そいつはすげぇや」

 全く気の無い返事をして、法地は才から『天のダイス』を受け取った。気休めの冗談か何かだと思っているんだろう。ごく当然の反応だ。

 田沼が毎回行うテストは、楽に採点できるように全て選択問題になっている。業者の作成した市販のテストで、四つの選択肢の中から一つ選ぶ形式の問題がほとんどだった。六面ダイスは《1》から《6》までの六つの数字を表示できるから、《 》を《1》と置き換えて考えれば、『天のダイス』でも答えを占うことは簡単だ。《5》や《6》が出てしまったら、またサイコロを振り直せばいい。

「ま、どうせ俺の実力じゃ、自力で考えるよりサイコロに任せた方がいい点取れるだろうしな。サンキュ、才、DVDの代わりに貸してもらうぜ」

 手のひらに『天のダイス』を転がしながら、法地は教科書を抱えて教室を出て行った。自分の背中を見送る親友が、不敵にほくそ笑んでいた事にも気付かずに。そして自分の借り受けたサイコロがいかに恐ろしい物なのか、知る由もなく……。



         *



 才が復帰したという点を除けば、法地の学園生活は何から何まで、全ていつも通りだった。良い事も悪い事も、何もかもいつも通り。だから当然、法地が一時間目の日本史で田沼にネチネチ言われる事も、やはりいつも通りだった。

 いや今日に限ってはいつも以上か。田沼の虫の居所が悪かったのか、普段と比べても特別酷い罵り様だった。放課後になり、才と二人で下校している今になってなお、まだ一時間目の授業の事を蒸し返して腹を立てるくらいなのだから。

「ちっくしょう、ムカつくぜ田沼の野郎!」

 苛立ち紛れに法地がスニーカーで地面を蹴る。舞い上がった砂埃が昇降口のコンクリートに覆い被さった。

「そんなに荒れるなよ法地。今日のテストの結果が分かるのは明日だ。好きなだけ言わせておけばいい」

「そりゃそうだけどよぉ……」

 授業の冒頭で行われる、先週のテストの答案返却。いつもなら満点で真っ先に名前を呼ばれる才は、入院していたために出番が無かったが、法地は例によって最後に名前を読み上げられた。点数は十八点。頭の禿げ上がった田沼は、野暮ったい黒ぶちの眼鏡を直しながら、クラス全員の見ている前でネチネチとしつこく法地を馬鹿にし続けたのだ。

 いくら大学全入時代とはいえ、ここまで酷い点じゃどこの大学も拾ってくれん。勘で書いてももっとマシな点が取れるだろう。よくこの点数で進学クラスに居られるな。進学は諦めてさっさと就職しろ……等々。

 言いたい放題である。とはいえ相手が教師である以上、喧嘩っ早い法地であっても拳をあげるわけにはいかない。田沼のストレスが発散される反面、法地のストレスは溜まる一方だった。

「いい気になりやがって、卒業したら見てろよあのジジイ!」

「おいおい、穏やかじゃないな。教師相手に暴力はお勧めできないぞ。何でも力ずくで解決しようとするのは阿呆のやる事だ」

 上履きから革靴に履き替えた才が、トントンと爪先を打ち鳴らす。

「そんな事より……もう一度訊くが。確かなんだろうな? 確かに、今日のテストで《5》も《6》も出なかったんだな?」

「ああ、サイコロを振り直したことは無かったな。上手い具合に《1》から《4》までしか出なかったぜ。それがどうかしたのかよ」

「そうか。やはりお前が振ってもそういう結果が出たか……。明日の採点結果を見るまでもないな」

 今日の一時間目、日本史のテストで、法地は才に言われた通り『天のダイス』を使用して問題を解答していった。答えの数字が出るよう願いながら、サイコロを一回ずつ振っていく。三十問のテスト問題で振った回数はキッチリ三十回。おかげで二十分の解答時間の大半をボケッと過ごす事になってしまった。普段とは大違いだ。

「《5》と《6》が出なかったのがそんなにすごい事なのか?」

 まっ平らに潰した学生鞄を肩越しに持ち、法地は校門へ歩きながら素朴な疑問を口にする。サイコロの目は六つあるはずだ。《1》から《4》までの数字が出る方が、《5》と《6》しか出ない確率よりずっと高い……と普通は思うのだが。

「当たり前だ。いいかよく考えろ。六面ダイスを一回投げた時に特定の目が出る確率は、六分の一だろう? 《5》と《6》が出ない確率となると、それ以外の目が出ればいいわけだから、六分の四……つまり三分の二になる」

 ちょっとした数学の確率問題である。

 一回目に《5》も《6》も出ない確率は三分の二。同様に、一回目に続いて二回目もサイコロの目に《5》と《6》が出ない確率となると……、三分の二に三分の二を乗算するから、九分の四だ。

 後は同じことの繰り返し。三十回振って《5》と《6》が一度も出ない確率を求めるなら、この計算を三十回繰り返せばいい。数学的に表現すると『三の三十乗』分の『二の三十乗』という確率になる。

「ちょ、ちょいまち……。おれ数学は苦手なんだよ」

「三の三十乗は『二百五兆八千九百十一億三千二百九万四千六百四十九』で、二の三十乗は『十億七千三百七十四万千八百二十四』。先の分数を少数に置き換えれば、約0.0000052という結果が弾き出される。分かりやすいようにパーセンテージで表現すると、サイコロを三十回振って《5》と《6》が一度も出ない確率は、実に0.00052パーセントというわずかな確率になるんだ」

「いや、わずかな確率とか言われても全然ピンと来ないっつーか、お前よくそんな数字暗記できるな……」

「ざっくばらんに言えば、まぁ二十万分の一の確率ということだ」

 それならどうにか実感できる数字だった。宝くじの当せん確率なんかと比べれば遥かに高い確率と言えるだろうが、それでも普通考えればまず起こり得ない数字である事は素人でも分かる。『天のダイス』は、その二十万分の一の確率をクリアしたという事なのか。

「まだまだこんなものじゃない。もし明日のテストでお前が百点満点だったら、その時は六の三十乗分の一……約二千二百億兆分の一という天文学的確率を導いた事になるんだからな。これがデビルズ・ダイスの力なのさ。偶然なんかじゃ説明がつかない、任意の数字を透視できる悪魔の力」

 なるほど、それで授業が終わった後、才に『天のダイス』を返しながら《5》と《6》が出なかったと説明しただけで、彼はデビルズ・ダイスの能力を確認できたわけか。悪魔の力という表現はいくら何でもオーバーだろうが、才がこの『数字を透視できる』サイコロにご執心って事くらいは法地にも何となく分かった。本当にそんな能力があるのかどうかは知らないが……。

 どうも才の言動にはいまいち理解不能な事が多い。デビルズ・ダイスとやらもそうだが、授業が終わった後、法地の病院へ行くと突然言い出したのも妙な話だ。サイコロと病院と何か関係があるのか?

 法地としてはあまり父親の経営する病院には行きたくないのだが、今日はゲームセンターのアルバイトも休みだし、バイク仲間との約束も無いから、才の頼みを聞き入れて付き合うことにしたのだ。しかも姉の彩も一緒に連れて行くという。これは迷惑どころか大歓迎の申し出だった。

 白河彩といえば、言わずと知れた白河才の姉にして全校生徒の憧れの的である。美しく長いストレートヘア、弟に比肩する双子の如き端正な顔立ち、華奢でありながら肉付きの良いプロポーション。しかも性格は、やや冷たいイメージの弟と違い、控えめで優しい理想的な大和撫子といった完璧ぶりなのだ。これでファンがつかないはずが無い。男子はもちろん、女子の間でも憧れのお姉様として有名な存在だった。

 現にいま、才と法地が来るのを待って校門にたたずんでいる彩の周りには、男女問わずファンの生垣が出来て身動き取れない状態になっていた。校庭の真ん中で足を止め、半ば呆れた様子で遠くの群衆を眺める二人。

「あー……。お前の人気も相当だけど、彩さんはそれ以上って感じだな」

「いつものことだ」

「彩さん、嫌って言えない性格だからなー。よっしゃ、ここは一つ白馬の王子が助けに行くとしますか!」

 誰が白馬の王子なのかは知らないが、法地は学生服の袖をまくり、猛牛のように人だかりに突進していった。確かに汚れ役を進んで引き受けられる度量の広さは素直に感心する。この学校で山寺法地の名前を聞けば、三年生の不良たちですら物怖じするくらいだ。彩の周りを取り囲む野次馬を追い払うには効果覿面である。

「こらー! お前ら何やってんだ! 彩さんが困ってるだろーが!」

 長身の彩が見えなくなるほどに集まったファンの生徒たちは、口々に法地への愚痴を小声で漏らしつつ、ほんの数分で退散させられていった。文句の一つも言いたくなるのは仕方あるまい。白河才と親友というだけで、どう見ても白河姉弟とアンバランス……いや対極に位置する山寺法地が、白河彩と行動を共にするのが解せないのだろう。彩自身は法地に対して全く否定的感情を持っていないのが、せめてもの救いだった。

「大丈夫でしたか、彩さん?」

 白馬の騎士になりきった法地がキザな口調で微笑みかける。行動とセリフが一致しているのに、顔の出来が一致していないのが実に残念だ。いくら否定的感情を持っていないとはいえ、さすがに彩の笑顔も少々引きつっている。

「あ、ありがとう。助かったわ法地くん」

「いやぁ、僕でよかったらいつでもボディガードになりますよ!」

「うん……でも、まぁそんなにお世話になる機会は無いかなって、思うんだけど」

「いやいや、最近は何かと物騒ですからね。今日だって僕が家までお送りしますから!」

 なぜか一人称まで変わっている法地である。このセリフをクラスメイトの加茂香奈が聞いたらきっと腹を抱えて大笑いするに違いない。どう考えても法地のルックスからすれば、香奈と話している時の態度がいちばん自然であり、今の口調はまず鏡を見てから考え直すべきレベルだろう。

「さ、茶番も終わったようだし。さっそく出かけよう姉さん。山寺総合医療センターにね」

 そして相変わらず一人マイペースに冷静な、才であった。



 山寺総合医療センター。それは法地の父親である山寺憲正が院長を勤める医療法人である。元々は個人経営の山寺クリニックという小さな医院だったのだが、数年前から急成長して、今や地域の救急指定病院にまで成り上がっていた。救命救急センターも兼ね備える地域医療の要である。目城高校からなら電車で二駅ほどの距離で、一週間前に才が虫垂炎になった時も、この病院で手術と入院の世話になっていた。

 地下一階、地上十八階の鉄筋コンクリート製で、市バス停留所にタクシー乗り場、屋上にはヘリポートと交通アクセスは万全。四十七科に及ぶ各診療科やICU、検査室、放射線治療室はもちろん、売店や飲食店、理容室まで兼ね備えた大病院である。ここだけで一個の都市として機能する……と言っても過言ではなかろう。それほどの壮大な施設だった。

「ったく、こんな馬鹿デカいもん造るカネがどこから沸いて出たのかねぇ。どうせ守銭奴の院長が汚い金でもかき集めたんだろうけど」

 近くの患者や職員にわざと聞こえるような大声で悪態をつきながら、法地が玄関ロビーの自動ドアを通っていく。普通、診察を受けに来た患者はまず診療受付で手続きをする。だが才は躊躇することなく総合受付の方にまっすぐ歩いていった。

「なんだ才? 診てもらいに来たんじゃないのか?」

「病院に行くとは言ったが診察してもらうとは一言も言ってないぞ。僕はただ院長に会いに来ただけだ」

 院長……ということはつまり、法地の父親。山寺憲正の事だ。一体何を考えているんだろう? これほどの大病院の院長ともなれば多忙を極める。どんな用事があるのか知らないが、いくら息子の友人だからと言って、一介の高校生にそう簡単に会ってくれるはずがなかった。

「親父は国際保健医療学会の仕事で二週間も海外に行ってたんだ。息子の俺にだってアポ無しじゃ会わねぇクソ親父だぞ? 受付でどうこう言って何とかなる話じゃ……っておい才、聞いてんのかっ?」

 呆気にとられる彩と法地をよそに、才は一人で総合受付の女性に話しかけた。

「すみません。院長にお会いしたいので取次ぎをお願いします」

 紺のブレザーに鮮やかなスカーフを結んだ受付嬢が、営業スマイルで訊き返す。

「はい。失礼ですが、お約束はございますか?」

「いや、アポは取ってないけど、会ってくれると思いますよ。そう……『サイコロについて話がある』と言って貰えればね。僕の名前は白河才。白河がサイコロについて話をしたいと伝えてもらえれば、それで問題ありません」

「はぁ……」

 悪戯か何かだと思ったのだろう。受付は困ったように曖昧な笑みを浮かべた。病院の院長にサイコロの件で話がある、なんて話を真面目に取り次げと頼む方が無理というものだ。それでも念のため、少々お待ちください……と前置きして受付嬢は手元の内線電話で連絡を取った。

 サイコロについて話がある、か……?

 そのサイコロというのは恐らくデビルズ・ダイスを指しているのだろう。才から『天のダイス』を貸してもらった法地なら、これくらいの見当はすぐにつく。問題はなぜ才が憲正にデビルズ・ダイスの話を持ちかけているのかという事だ。そもそも才はあのサイコロをどこで手に入れたんだろう。数字の透視能力があるとか言っていたが、どうしてそう思うようになったんだろう。法地の父親が何か関係していると言うのだろうか。それでわざわざここまでやって来たのか?

 才が憲正に会ったのは、おそらく五年ほど前の検査入院の時くらいだ。接点があったとは思えない。それにデビルズ・ダイスの件で病院に来たのなら、なぜ彩も一緒なのか。全く理由が分からなかった。

 法地は彩の表情を横目で見遣った。彼女は完全に困惑している。弟の奇妙な行動が理解できないといったところか。才はダイスの事を誰にも言うなと口止めしていたし、学校からここへ来るまでの間も、彩の前では決してサイコロは話題に出さなかった。デビルズ・ダイスの事は彩にも秘密なのだろう。

 となると今度は、どうして彩に秘密にしているのかという疑問が湧いてくる。駄目だ、どうにもわからない事だらけ。才が何を考え、何を目的に行動しているのか、今ひとつ法地にはピンと来なかった。論理を一つ一つ積み上げて理詰めで考えていくのは苦手なのだ。あいつの事だからまたろくでもない事でも企んでるんだろうが……。



         *



 それからしばらくして、才の言った通り院長の面会許可があっさりと下りた。法地にはロビーで待っているよう指示し、才と彩が二人で院長室へ向かっていく。

「って、俺だけ置いてけぼりかよ?」

「すぐ戻ってくる。テレビでも見て待っていてくれ」

 才がぜひ一緒に来て欲しいと言うから、法地は来たくもないこの病院までわざわざ付き合ったのだ。そのくせ待っていろとはどういう了見だ。クソ親父の顔を見ずに済むのだけはありがたかったが、全く持って腑に落ちない話だった。彩と一緒に院長に会うというのなら、もしかすると法地の推測は的外れで、憲正との面会はデビルズ・ダイスとは全く無関係なのかもしれない。

 しかもすぐ戻ると言いながら、結局法地はそれから二時間近くロビーで待たされる事になった。病院に来たのがだいたい午後五時前。もう六時半をとっくに過ぎているではないか。外は薄暗い。あまりにも待ちくたびれ過ぎて、ようやく才が帰ってきた頃にはもう、法地には怒る気力さえ全く残っていなかった。

「お前どんだけ待たせりゃ気が済むんだよ……」

「悪い、思ったより長引いたんでね。病院というのは色々と面倒な手続きが多くてかなわないな。どうにか目的は果たせそうだけど」

 目的? 目的っていったい何だ? 才は何をしにこの病院に来たんだ?

 それに彩の姿が見えない。才と彩の二人で院長室に行ったはずなのに、二時間近くも過ぎて帰ってきたのは才だけだった。しかも彼はそれを当然のように受け止めていて、全く気にする様子もないのだ。どういうことだ?

「……何が何だか訳が分からないって顔をしているな。いいだろう、一つずつ説明してやるよ。まず姉さんの事だけど、実は身体の具合が悪くてね。院長に頼んでちょっと精密検査をしてもらったんだ。案の定、異常が見つかったから、今から緊急手術をしてもらう事になった」

 さらりと説明する才。だがどうも法地はその言葉を真に受ける気にはなれなかった。そりゃそうだろう。確かに彩は大人しい性格でおっとりしているが、さっきまで普通に健康そうだったじゃないか。とても手術しなくちゃいけない身体には見えなかった。だいたいそんな手続きを院長に頼むなんて聞いたこともない。診療受付で普通に手続きできる事だ。

「姉さんは医者嫌いだからさ。何か他の用事で来たように見せかけないと途中で逃げられてしまうんだ。子供みたいだろ? 困ったものだよ。……おっと、こんなこと法地に言ったなんて本人には内緒にしておいてくれよ。バレたら僕が姉さんに大目玉だ」

 オーバーに肩をすくめる才。

 こいつ……何か、隠してるのか?

 法地のカンはよく当たる。これはあの才ですら認めている事だ。カンと言っても当てずっぽうで言っているわけじゃない。ほんのわずかな表情の歪み、言葉の震え、挙動の差異を無意識のうちに正確に観察し、直感として警告を発する本能に由来するものだった。具体的にどこが怪しい、と指摘できるわけじゃないが、法地は感覚的にこのカンを働かせて物事を判断する事が出来た。理詰めで考えるのは苦手だが直感で考えるのは得意なのだ。そして今、法地のカンが才の挙動に疑問符をつけている。

 才と法地は親友だ。それは揺ぎ無い事実である。

 けれど親友とは決して仲良しこよしの関係ではない。本音を言い合える仲だからこそ親友なのだ。本音で付き合う以上、相手に気に入らないところがあったり、間違っていると思ったりしたら、それはきちんと指摘してやるべきだろう。少なくとも法地はそう思っている。

 蛇足ながら付け加えると、法地は才を親友と思っているが、彩に対しては親友以上の感情も持っていた。だから彩の事となると才に向けて微妙な嫉妬が芽生える事も否定できない。いま法地が妙に彩の事にこだわっているのもそこが一番の原因だろう。

 彩は本当に病気なのか?

 何かおかしな問題に巻き込まれているのではないか?

 あのクソ親父が一枚噛んでるんなら尚の事、とんでもない事態になっていても驚かない。どうも心配だ。やっぱり才はデビルズ・ダイスに関する事で憲正と会い、そのとき彩の身に何かが起きたのでは……?

「へぇ、緊急手術か。そりゃ大変だな」

 平静を装い、法地が自然な口調で返す。考えていても埒が明かない。こうなったら一つカマをかけてみるだけだ。

「どこが悪いんだ? 消化器系か? 呼吸器系か?」

「ああ、いわゆる腹部大動脈瘤ってやつだよ。腹の辺りに通っている大動脈に瘤状の膨らみが出来ていてね、切迫破裂の疑いもあるから早急に手術した方がいいだろうって。僕もCTスキャンの画像を見せてもらった。十ミリくらいの瘤ができてたよ」

「な、なるほど。大動脈瘤なら破裂する前に手術するのが定石だし、腹部なら胸部と違って成功率も高いって聞くしな」

 どういうことだ? 俺の考え過ぎか? 病名や症状をすんなり言えたってことは、ちゃんと検査して手続きも整えたって事になるが。そんな法地の内心を見透かしたように、才はさらに言葉を継いだ。

「未成年者の手術には保護者の同意書が必要だからね。いま義母さんに電話してこっちに来るよう頼んだところだ。執刀医は僕の時と同じだし、義母さんも慣れたものだろう。病状や手術方法の説明に一時間かかるとして、手術は正味四、五時間くらい。日付が変わる頃には一段落着いていると思う」

 親も呼び出されるとなると間違いなく正式な手続きに基づく手術と考えてよさそうだ。いくらクソ親父でも病院の業務としてやっている手術で妙な真似は出来まい。

「悪いな、もうちょっと付き合ってくれ」

「ああわかったよ……って、ええ? 俺も居残るのかっ?」

「当然だろう。姉さんを置いて一人で帰るつもりか? 薄情な奴だな」

「そう言われると弱いけど……。うーん、いくらゲーセンのバイトが無いからって、明日も学校あるんだぜ? 参ったなぁ」

 と言いつつ、バイク仲間とツーリングに出かける時はいつも帰りが午前様になっているのだが。母親に電話さえ入れておけば問題あるまい。どうせあのクソ親父は息子である法地の事になど、全く興味を持っていないんだから。



         *



 いくら親友といっても、白河家の家庭の事情を、法地はそれほど詳しく知っているわけではない。

 彼が白河姉弟と会った時、もう珠菜は二人の母親となっていた。才と彩の実母は、才を産んだ後わずか数年で病死したらしい。珠菜は元々、和歳の大学の研究室で助手をしており、発掘調査の打ち合わせなどで白河家を訪れる事も度々あった。幼い才や彩の面倒をよく見て、和歳の考古学に対する情熱にも敬愛の念を持っていた珠菜が、やがて白河と姓を変えることは自然な流れだったのだろう。子育てのために大学を辞めてからも、珠菜は発掘に執念を燃やす夫を内助の功で支え続けた。

 法地も、小学生の頃は何度か白河家に遊びに行っていた。しかし珠菜がスナックを出店するため、和歳と相談して持ち家を売却し、アパートに引っ越してからはほとんど訪ねた事が無かった。その頃から見知らぬ中年の男性をよく見かけるようになり、子供心にも法地は妙な空気を白河家に感じ取っていたものだ。才や彩の笑顔の裏に、仄かな暗い影が見え隠れするようになったのも同じ時期だった。

 やがて白河和歳が自殺し、その中年の男性――白河珠菜の恋人である岡本が同居するようになると、才も彩も家庭の事情には口をつぐむ様になっていった。法地自身も高校に進学した後、父親との間にいさかいを繰り返していたから、実際それどころでは無かったのだ。

 お互いがそれぞれ家庭に問題を持ち、必要以上に干渉しなかった。だからこそ法地と才と彩の間には、奇妙な連帯感と友情が育まれていったのかもしれない。

「……相変わらず綺麗だったな、お袋さん」

 赤く点灯する『手術中』のランプを見上げながら、法地は話題を探して適当に呟いた。少なくともあと四時間はこうやって才と二人で『手術中』ランプが消えるのを待たなければならないのだ。何とか話題を掘り起こさないと間がもたないだろう。この病院ではPHSを貸し出して手術終了を連絡してくれるサービスもあるはずなのに、才はまるでテレビドラマのように手術室の前で待ち続ける事を選んだ。いくら彩の手術とはいえ、付き合わされる法地としてはさすがに辟易してくる。

 義理の息子から連絡を受け、経営しているスナックから白河珠菜が駆けつけてきたのが一時間前。その後、執刀医から病状について説明を受け、彩が手術室に運ばれて、手術が始まってからまだ数十分しか経っていない。時刻は午後八時半を回ったところだ。

「世辞はいいよ」

 暇つぶしのゲームや本を広げる事も無く、才はずっと腕組をして廊下のベンチに腰かけていた。刺すような視線で『手術中』ランプを見上げている。

「でも綺麗なドレス着てたし、メイクもバッチリだったし」

「あれが仕事だからな。醜い皺を白粉で取り繕っているだけだ。素面で家にいる時は別人だよ。岡本もそれに騙された口だろう」

 白河家の内情を知らない法地であっても、才が義母やその恋人に対してかなり強いマイナスの感情を抱いていることは十分感じ取れた。幼い頃から知っている珠菜はまだしも、彼女のスナックの常連客に過ぎなかった岡本に関しては何の親近感も持っていないようだ。

 確かに珠菜はまだ三十代後半。実の親子じゃないんだから当たり前だが、とても高校生の子供がいるとは思えない外見だった。才や彩とは全く似ていないものの、割りと端正な顔立ちをしている方だと思う。ただ法地の記憶の中の姿と比べると、気のせいか若干化粧が濃くなっているようだった。

 もちろん才だって珠菜に面と向かって雑言を吐いたりはしない。こんな歯に衣を着せない物言いができるのも、いま彼女が手術室の中にいて、会話を聞かれる心配が全く無いからだった。

 そう……珠菜は彩の手術を承諾する代わりに、ある一つの条件を提示してきた。それは自分を手術室に入れ、手術の一部始終を見せること。なぜそんな事を言い出したのか――執刀医も目を丸くしていた。

 幼い子供であれば、手術室の中まで親が付き添うのは不思議じゃないが、それでも手術が始まれば別室で待機するのが普通だ。まして高校生の彩ならわざわざ立ち会う必要なんて全く無いはずなのに。一週間ほど前に才が盲腸の手術を受けた時も、珠菜は同意書にサインしただけでそんな条件は付け足さなかった。考古学が専門で、医学に関しては素人の珠菜が、外科手術に興味を示すのはどう考えても不自然だった。才でさえ腑に落ちない顔をしているくらいだ。

 結局、院長と相談した執刀医の方が折れ、珠菜は邪魔をしない約束で最後まで手術を見届ける事になった。手術室の入り口にある更衣室であの派手なドレスを着替え、清潔に身体を消毒した上で、今頃は彩の様子を見守っているはずだ。手術には執刀医の他にも手術室専属の看護師が多数参加し、協力して作業を進める。一人くらい部外者がいても、家族なら特に問題は無いのだろう。



 そして、時計の短針と長針が重なり、日付が切り替わる頃。ようやく『手術中』の赤いランプが消灯となった。手術室の扉が開き、微かな風の流れと共に執刀医が姿を見せる。雑菌を含んだ空気が流れ込まないよう、手術室は廊下より気圧を少し高く調整してあるのだ。

「手術は終了です。無事、動脈瘤を切除できました」

 腹部大動脈瘤の手術は、血管が破裂する前に行えば成功率が極めて高く、山寺総合医療センターでも九割以上の手術が無事終了している。だから法地もそれほど心配はしていなかったが、ひとまず胸を撫で下ろした格好だ。後は肺炎や腸閉塞といった合併症に注意して、二、三週間の入院で経過を見ればいい。まぁこれらの合併症もほとんど発症例は見られない。若くて体力や抵抗力のある彩ならまず大丈夫だろう。

 けれど才の顔はあまり冴えない様子だった。怪訝な口調で執刀医に詰め寄る。

「切除……ですか」

「え、ええ。意外と大きな動脈瘤でしたので……」

 成功したはずなのに、何故か医師の顔も困惑している。才と視線を合わせようとしなかった。何だ……この人? 何を隠してるんだ?

 次いでストレッチャーに乗せられた彩が看護師たちの手で運び出されていく。全身麻酔が効いているから熟睡中だ。法地が覗き込んでも無反応だが、穏やかな寝顔からはそれほど手術の疲れは感じられなかった。

「才? 悪いけど、しばらくの間、彩のそばにいてくれる?」

 最後に姿を見せた珠菜は、ウェーブのかかった長い髪を払いながら、ハイヒールの音を響かせた。既に着替えを済ませて鮮やかなドレス姿に戻っている。手にしたハンドバッグの中には化粧道具も忍ばせてあるのか、長い手術の後だというのに、やや厚めの化粧は全く乱れていなかった。

「一度お店に行って従業員の娘たちを返してあげないと。それから着替えを持ってまた戻ってくるわ」

「そうだね。僕もまだ法地と話があるし。ゆっくりでいいよ」

 珠菜の経営するスナックは、考古学の発掘で借金ばかり繰り返す和歳と相談し、持ち家を処分して開店した白河家の生命線である。幸い、順調な客足で経営は軌道に乗っているが、白河家の家計を支える唯一の拠点である以上、子供が入院していても休業するわけにはいかなかった。

 才が虫垂炎で入院していた時は彩が面倒を見てくれたから、今度は才がちょくちょく顔を出す事になるだろう。着替えを持って来るとか何とか、母親らしい事を言ってはいるが、結局最後は姉弟同士で支え合うしかない。法地でさえ、才の入院の様子を見てそう感じていたくらいだ。才は初めから期待していなかった。珠菜に、母親としての行動をとる事を。

「義母さん」

 立ち去ろうとする珠菜の背中に、才が小さく声をかける。リノニウムの床にこだまするハイヒールの靴音が途切れた。

「……何かしら」

「泥棒はいけないと思うよ」

「泥棒?」

 ウェーブの髪をなびかせて振り返る。もう病院のスタッフは引き払っていて、手術室の前には才と珠菜、それに法地の三人しか残っていなかった。静まり返った深夜の病院に、張り詰めた空気が漂う。

「とぼけても無駄さ。ハンドバッグに入っているもの。そいつは、元々姉さんのもの……いや父さんが姉さんに託したものだったんだろう? 母親だからって、無断で取り上げるのは泥棒と同じだよ」

 丹念にメイクされた珠菜の顔に皺が走る。視線からは殺気同然の強烈な感情が迸っていた。な、なんだこの親子……いくら血が繋がっていないからって、こんな殺伐とした空気を漂わせるなんて。ハンドバッグに入っているもの? 和歳が彩に託したもの? 才はいったい何を言っているんだ?

 ドレスの胸を飾るブローチを弄りながら、珠菜はなおもシラを切った。

「何の事だか母さん分からないわ。悪いけど急いでいるの。話は後にしてくれないかしら」

「よく気付いたものだなって思うよ。まさか手術に立ち合わせろなんて言い出すとは、僕もちょっと意外だった」

「私は彩のことが心配だっただけよ。盲腸ならよくある病気だけど、大動脈瘤なんて聞いたことが無かったから」

「でも義母さんの仕事はただの監視だろう? 功を焦って勝手な真似をしても、連中からは睨まれるだけなんじゃないか? 餅は餅屋って言うし、余計な事をして報酬が増えるわけでもない。今まで通り、大人しく僕たち姉弟の行動を見張って、報告するだけにしておいた方がいいと思うよ」

「才、あなた……」

 ファンデーションに色取られた珠菜の額に冷や汗が浮かぶ。明らかに動揺している。蚊帳の外の法地には、才が何を言っているのかさっぱり分からなかったが、どうやらその言葉は彼女の痛いところを見事にえぐり取っている様だった。不敵な笑みを浮かべる才が尚も言葉を継いでいく。

「そいつは僕たち姉弟の血と涙の結晶だ。誰にも渡しはしない。たとえ義母さんだろうと、それ以外の連中だろうと……絶対に手放したりはしないから。奴らにもそう伝えておいてよ」

「じ、自分が……。自分が何を言っているのか、分かっているの、才?」

「ああ分かっているとも。どうしても取り上げようって言うんなら、僕は義母さんやその後ろにいる連中を敵に回したって構わない。やれるものならやってみるといいさ」

 無限とも思えるような沈黙――実際にはほんの数秒だったけれど、その沈黙の後、珠菜はゆっくりとハンドバッグに指を差し入れた。何か小さな黒い塊をつまみ出し、そっと才に向けて差し出す。

「……わかったわ」

 上に向けた才の手のひらに塊を乗せた。

「ありがとう。姉さんが入院している間は、僕が預かっておくよ」

 そう言って才が受け取った黒い塊……それは黒鉄色の半透明の立方体だった。表面には赤い色で数字が描かれている。

 ――あれは、デビルズ・ダイス?

 どういう事だ? デビルズ・ダイスは一つじゃなかったのか? 和歳が彩に託したって言ってたけど……そうか、考古学者の和歳が二人の子供にそれぞれ一つずつ遺した形見の品っていうんなら、確かに筋は通る。でもどうして珠菜はそれを奪おうとしたんだろう。デビルズ・ダイスが何なのか、どんな能力を持っているのか、知っているっていうのか?

 もちろん、珠菜がそんな法地の疑問に答えてくれるはずもない。渋々ダイスを義理の息子に渡すと、フンと鼻を鳴らし、彼女はきびすを返した。ハイヒールの甲高い音を響かせながら、夜の廊下を立ち去っていく。

「まったく、油断も隙もないな」

 制服のポケットにデビルズ・ダイスを納め、才が氷のような眼で義母の背中を射抜いた。呟くような小さな声で、しかしハッキリと、言い放つ。

「……泥棒猫め」

 珠菜の薄い化粧の香りだけが、残り香として、辺りにいつまでも漂っていた。



         *



 山寺総合医療センターの入院用の部屋は全部で三種類ある。相部屋の1ナンバー。個室の2ナンバー。そしてVIP専用の3ナンバー。術後に彩が運び込まれた15306号室は3ナンバーの病室であり、個室というだけでなく、防音にも優れたホテル並みのスィートルームとなっていた。

 広々としていてテレビも大画面だし、専用の流しや陶器のティーセットも常備されている。壁紙やカーペット、カーテンに至るまで高級品で固められており、ホテルの一室と言われてもそれほど違和感が無いくらいだった。来客用の椅子だって普通は安いパイプ椅子なのに、肘掛まで付いた美術品クラスの椅子が用意されている。個室の中でも最高級の病室だろう。

 当然、入院費用は相部屋の数倍になるわけだが、よくもまぁこんな成金用の個室を使う気になったものだ。金を出すのは珠菜だから、彼女が言い出したのだろうか。

 珠菜と別れた才と法地は、手術室の前から移動し、エレベーターで15306号室に向かった。病室の扉は不測の事態に迅速に対応できるよう、音も無くスムースに開く、引き戸の大きなドアになっている。鍵はかけられない構造だ。

 ベッドを整えていた看護師の女性と言葉を交わし、入院中の行動について幾つか説明を受ける。やがて看護師が立ち去ると、室内には寝息を立てる彩と、才と法地の三人だけになった。

「……やれやれ、やっと一息つけるな。何か飲むか? 紅茶か緑茶かコーヒーくらいしかないけど」

 才は軽く息を吐いて、備え付けの流しに足を向けた。

「いや、いいよ。この時間にそんなの飲んだら寝られなくなっちまう」

「どこの小学生だ、子供じゃあるまいし」

 小さく才が笑う。とはいえもう時刻は午前一時近く。法地の言う事ももっともだろう。二人は来客用の椅子にゆっくりと腰掛けた。

 彩は当分目を覚ましそうに無い。珠菜も一時間は戻ってこないはずだ。色々と積み重なった疑問を解くには、今が絶好のチャンスだった。病院にやって来たのは彩の手術のため……というのは確かに間違い無さそうだが、それだけではどうにも納得できない事が多すぎる。才が『サイコロについて話がある』と言って憲正と面会したのは事実だし、珠菜のハンドバッグからもう一つのデビルズ・ダイスが出てきたのもこの目でしっかりと見た。いったい何がどうなっているんだ?

「さて……何から話すべきかな」

 才も質問される事は分かっていたらしく、尋ねられる前に自分から切り出していった。

「お前が疑っている通り、ここに来た理由は姉さんを入院させる事だけじゃない。デビルズ・ダイスに関して、どうしても院長に会っておく必要があったのさ。お前も見ただろう? デビルズ・ダイスは一個だけじゃない。本当は二つのサイコロによって構成されるべき物で、お前に貸した『天のダイス』だけでは不十分なんだ。あれ一つではデビルズ・ダイスの本来の能力の半分も発揮できない」

 才はいったいどこでデビルズ・ダイスの事を知ったのか。それは父親である白河和歳の遺品を整理していた時、彼が残した研究ノートを偶然発見したからだった。その時はデビルズ・ダイスの現物が手元に無かったため、才はノートの内容をよく理解する事が出来なかった。考古学者の父が書き綴ったにしては妙な内容だなと思った程度だ。

 その後、気になって何度か目を通しているうちに、ノートに書かれている『デビルズ・ダイス』というサイコロが任意の数字を透視できる恐ろしい能力を持っていることに気づいた。もちろんサイコロの現物が存在しない限り、それが父親の全くの妄想である可能性も否定できなかったが……。

 才は学生鞄を開き、中から一冊の大学ノートを取り出した。まさにその和歳の研究ノートだ。黄ばみがかったノートを法地に手渡し、中を見るよう促した。

「しかし僕は手に入れた。『天のダイス』をね。そして『天のダイス』を使った実験の追試で、研究ノートが事実を正確に記したものであると悟った。まだ全ての実験を追試したわけじゃないが、確信を得るには十分だったよ」

 パラパラと法地がノートをめくる。そこにはびっしりと細かい手書き文字で、デビルズ・ダイスを使った実験の数々が詳細に記されていた。

「お前の親父さんって確か考古学者だったよな? てことはデビルズ・ダイスも」

「ああ、父さんが外国の遺跡で発掘したものらしい。いつ、誰が、どこで創ったのか……よくはわからないけれど」

 サイコロの歴史は古い。現在よく見られる立方体の形状ではないが、その原型となる物なら、紀元前三千二百年のエジプト古王朝や紀元前二千年の古代メソポタミア文明からも出土している程だ。日本にも奈良時代より少し前、中国から双六と共に伝わったと言われている。宮城県の多賀城跡で発見された西暦七百年頃のサイコロが、恐らく現在のところ日本最古の立方体サイコロだろう。遺跡からサイコロが発掘される事はそれほど珍しくない。デビルズ・ダイスもそうした古代のサイコロの一種だった。

 そう考えると、もしかしたら任意の数字を確実に透視できるという悪魔の能力……この能力も、実はそれほど特別なものではないのかもしれない。古代文明の人間がデビルズ・ダイスを創ったのだとしたら、その技術を一組のサイコロの製造だけで終わらせるとは考えにくかった。試作品や量産品が他にも存在すると考えた方が自然だろう。或いは交易品として他の地域の文明に伝播した可能性もある。

 仮にそういった第二・第三のデビルズ・ダイスが存在したとして、今まで誰もその能力に気付かなかったとしても、何も不思議ではなかった。古代遺跡から出土した貴重な発掘品を使って、数字を透視するなんて馬鹿げた実験をする考古学者がどこにいるだろうか。和歳がどうしてデビルズ・ダイスであんな実験の数々をやってみる気になったのか――才にとって、むしろそっちの方がよっぽど不思議な事だった。

「いずれにせよ父さんはデビルズ・ダイスの能力を徹底的に調べ上げた。けれどあまりに恐ろしい悪魔の力に危惧を抱いた父さんは、ある方法を使って二つのデビルズ・ダイスを『封印』したんだ」

 才の話を聞きながら研究ノートをめくっていた法地は、ふとその手の動きを止めた。何だ……コレ? ノートの綴じ目に指を這わす。

 研究ノートのページが一部、破られているのだ。その後のページが全て白紙ということは、実験を書き連ねた最後のページが破られている事になる。見たところ破り取ったのは一ページ分。いったい何が書いてあったのだろう。破ったのは誰だ? 和歳か? それとも才か?

「才……ここ破れてるぞ。いいのか?」

「ああ。それは元からだ。どうせ父さんが書き損じて破り捨てたんだろう」

 事も無げに言い放つ才。どうしてそう断言できる? 書き損じならバツ印でもつければいいだけじゃないか。それにもし本当に書き間違えたのなら、破った後のページに新しく書き直すはず。でもこのノートは破ったページが最後のページになっていた。どうも腑に落ちない。

 さらに研究ノートのページを逆戻りしてみると、法地はある奇妙な単語が繰り返し登場している事に気付いた。

『財団』という文字だ。

『財団』? 財団法人のことか? 『財団』の話によれば云々とか、『財団』の資金が云々とか、研究ノートを見る限りデビルズ・ダイスと白河和歳に対してかなり深く関わっているようだった。

「『財団』とは、父さんの発掘研究に資金を提供してくれた財団法人の事だよ。目城市文化振興財団が正式な名前だね」

「へ、へぇ……」

 ノートを見る法地の視線を瞬時に把握し、才は先回りして丁寧に疑問に答えてくれた。しかし長い付き合いの法地にしてみれば、その丁寧さが逆に不審を増幅させる。やっぱり怪しい。何か隠してるんじゃないのか?

 法地の疑惑を知ってか知らずか、才は彼の手から研究ノートを取り上げると、パラパラと自分も軽く眼を通した後で学生鞄に戻していった。

 さて……と話を切り替える。

「さっきの続きだ。デビルズ・ダイスの恐ろしさを知った父さんは、誰にも見つからない巧妙な方法でこれを隠した。見つけるのに苦労したよ。僕が『天のダイス』の現物を手に入れたのはほんの数日前だからね。そこでやっとこの、研究ノートの正しさを実感する事が出来た」

 才は詰襟の学生服のボタンを外し、右手で左胸の内ポケットを探った。中から『天のダイス』を取り出す。《 》と《2》から《6》までの目が振られた黒いサイコロ。

 そして今度は左手を右胸の内ポケットに入れる。人差し指と中指でつまみ出したもう一つのサイコロ……それもまた、十ミリほどの大きさの半透明の直方体だった。珠菜がハンドバッグに入れて持ち出そうとしていたあのデビルズ・ダイスだ。《 》と《1》《2》《3》の三つの数字、そして《○》《×》の二つの記号が描かれた、奇妙な六面ダイスである。

「……これが、『地のダイス』。『天のダイス』と対を成す、もう一つのデビルズ・ダイスだ。僕はこれを手に入れるためにここまでやって来た。義母さんに邪魔されそうになったけど、無事に目的を果たす事が出来たよ。封印を解くには院長の協力が不可欠だったものでね」

 憲正の力でしか解除できない封印……いったいどうやってデビルズ・ダイスを隠したというのだろう。白河和歳が自殺してからもう五年ほどになる。あの才が何年も見つけられなかったとなると、よほど巧妙な隠し方をしていたに違いない。

「いったいどこに隠してあったんだ?」

「それはまた別の機会に話す。それよりお前にはこのデビルズ・ダイスの真の力を見ておいてもらいたいんだ。デビルズ・ダイスがどれほどの力を持っているのか、協力者としてな。今から実験の追試も兼ねて、ある数字を透視しようと思う」

 才は二つの黒いサイコロを左手に移すと、今度は左の胸ポケットから一枚のカードを引っ張り出した。マークシート方式で記入する長方形のカードだ。

 ロットーくじ。

 富岡銀行が発行している宝くじの一種である。1から43までの数字の中から六個を予想してマークし、当せん番号の数字とどれだけ一致したかによって当せん等級が決まる仕組みになっている。六つ全ての数字が合えば一等、五つだけだと二等、四つだけなら三等……という具合。既存の宝くじと違って申し込み番号を自分で選べるため、売り場の少ない地方が不利ということも無く、純粋に運だけで当せんが決まるユニークな宝くじだった。

 一等の当せん確率は理論値で六百万分の一。申し込んだ数字はマークシートで集計されるため、もし当せん者がいなければ『該当者無し』とはっきり結果が分かる。その場合の当せん金は次回に繰り越され、一等の最高賞金は計算上四億円にも達する高額の宝くじなのだ。毎週抽選が行われ、気軽に参加できるのが人気の秘密であるが、だからといって決して賞金がケチという訳ではなかった。

「なるほど、デビルズ・ダイスで数字が透視できるんなら、宝くじの当せん番号も占えるってわけだ。ロットーくじなら自分で番号を決められるし、未成年が買っても問題ないからな。……けどそんなに上手くいくかなぁ」

 デビルズ・ダイスの能力に今ひとつピンと来ていない法地としては、何だか眉唾な印象を拭えないのである。

「だいたいサイコロって《1》から《6》までしか無いんだろ。どうやって43個のロットーくじの番号から、六つの当せん番号を透視するんだよ?」

 まぁ十の位と一の位は別々に透視するにしても、やはり最低でも1から9、それに0を加えた十個の数字を表示できなければ、いくらデビルズ・ダイスといえども宝くじの番号を占うのは不可能と思われた。

『天のダイス』に描かれている数字の目は《2》から《6》まで。『地のダイス』に至っては《1》から《3》までしかない。両方とも《 》という何も描かれていない目があり、どちらのサイコロでもこれだけでは0から9までの十個の数字を表現する事は出来ないはずだった。

 ……これだけ、では?

 法地の眼が大きく見開く。待てよ……。待てよ? 才が言っていたじゃないか、デビルズ・ダイスは二つのサイコロで構成される物だと。ダイス一つだけでは本来の能力の半分も発揮できないと。

《2》から《6》。《1》から《3》。そして両方のダイスに存在する、何も描かれていない《 》の目。もしこれらの数字が、二つのダイスを同時に使う事を前提に描かれていたのだとしたら?

《6》と《1》、《6》と《2》、そして《6》と《3》……。

 二つのダイスの《 》……。

「……そうか。そういう事だったのか。それで『天のダイス』には《1》の目が無かったのか!」

 法地の呟きにニヤリと笑みを浮かべる才。

「気づいたようだな。そういう事だ。デビルズ・ダイスは『天のダイス』と『地のダイス』を組み合わせる事で、0から9までの十個の数字を表示する事が出来る。これこそデビルズ・ダイスの真の力。本当の使い方だ」

 才はソファの座面に二つのサイコロをそっと置き、両方とも《 》の目が上を向くよう向きを整えた。『天のダイス』も『地のダイス』も、どちらも数字の無い《 》を指している状態。これがデビルズ・ダイスにおける0の表示である。

 次に『地のダイス』だけを回し、《1》の目を上向ける。

「《 》と《1》の組み合わせ。これが1の表示だ。同様に、2と3も『地のダイス』を回す事で表示が可能となる。《 》と《2》、《 》と《3》といった具合にな」

 4、5、6では逆に『天のダイス』を回し、『地のダイス』は《 》の目を出しておく。そうすれば《 》と《4》、《 》と《5》、《 》と《6》でそれぞれ4、5、6を表現できた。

 そして7、8、9の三つの数字。これを表示する時は、『天のダイス』を《6》で固定しておいて、『地のダイス』をそれぞれ《1》、《2》、《3》とすれば良いだろう。《6》と《1》。《6》と《2》。《6》と《3》。6足す1は7、6足す2は8、6足す3は9だからだ。

 もちろん、確率的には全ての組み合わせが均一に出るわけではない。2と3は『天のダイス』と『地のダイス』の役割が入れ替わっても同じように表示できるし、《2》と《2》で4とか、《3》と《4》で7とか、そんな表示も理屈の上では有り得るのだから。これがサイコロを使って遊ぶボードゲームか何かのルールだったら、全くフェアと言えない欠陥ルールだろう。

 けれどデビルズ・ダイスに確率は関係ない。任意の数字を透視し、その数字だけを表示するサイコロである以上、振る人間が『《6》と《1》で7を表示する』と決めさえすればそれでいいのだ。後は何百回振ろうが7の場合は《6》と《1》のみで表示される。《2》と《5》とか、《3》と《4》といった組み合わせは出てこないのだ、絶対に。

 そう……絶対に出てこない。出てくるのは《6》と《1》の組み合わせのみ。それがデビルズ・ダイスというものなのだ。

「さてと。いきなり当せん番号を透視しても面白味が無いからな、最初にまず当せん金額を透視してみるか?」

 才は二つのダイスを右手に握り、コロコロと手の中で弄び始めた。

「前回のロットーくじは珍しく一等の当せん者がいなかったんだ。上手くいけばキャリーオーバーされてかなりの高額賞金になるはずだぞ」

 普通の宝くじと違ってロットーくじの当せん金は一定ではない。前にも言ったように当せん者がいなければ当せん金が繰り越されるし、当せん者が複数いれば賞金は少な目になってしまうのだ。これは当せん金額を、あらかじめ決められた一定の配分率に応じて各等級に配分し、それを等級ごとの当せん口数で均等に分配する仕組みになっているからだった。番号を自分で選ぶロットーくじならではの現象だろう。

 ロットーくじの一等は約一億円が当せん金の目安と言われているが、当せん者が百人以上いた時などはわずか二百万円足らずだった事さえある。これでは当せん番号を透視しても空しいだけだ。

 才は手の中で転がしていたデビルズ・ダイスを、足元のカーペットにそっと放り投げた。適当なテーブルが近くに無いのだから仕方ない。ダイスは床を二、三回転がり、《 》と《3》の目を上にして動きを止めた。

「デビルズ・ダイスの能力と、転がる面の摩擦係数は関係ない。これは父さんの実験ノートに書かれていたし、僕も『天のダイス』で追試して確かめた。氷の上だろうとゴムの上だろうと、ガラスだろうと地面だろうと、ある程度の平らな面であれば結果は全て同じなんだ。要するにサイコロが数回転がる運動エネルギーを与えさえすればいい」

 デビルズ・ダイスを拾い上げてもう一度床に転がす。今度は《6》と《2》。その次は《 》と《 》。後は順番に、《 》と《6》、《 》と《1》、《6》と《1》……という結果だった。

 今度は二つのダイスを指でつまみ、十センチほどの高さから左の手のひらに落としていく。運動エネルギーを与えるだけなら、これでも何とか透視はできた。外でデビルズ・ダイスを使う時はこの方法がコンパクトでいいだろう。落下したダイスが手のひらで踊る。透視結果は《 》と《 》。これが三回続いた。

「ロットーくじの一等賞金は四億円までと決められているからな。桁数から考えるとこれで最後だろう。透視した数字を順番に並べていくと……『380617000』、だな。三億八千六十一万七千円か。いいぞ、最高限度に近い当せん金額じゃないか」

「当たったら、の話だけどな。まだ当せんしたと決まったわけじゃないんだぜ? 皮算用は止めといた方がいいんじゃないか?」

 クールな彼としては珍しいほどに盛り上がっている才に対して、法地は何だか冷めた気分になってきていた。二つのサイコロを組み合わせる事で0から9までの数字を透視するというアイディアはよく分かる。けれど透視した数字が本当に当せん金額かどうかは誰にも分からないんだ。ロットーくじの抽選は毎週行われているから、判明するのは五日後くらい。せめて明日の日本史のテスト結果が分かるまでは、法地としてはデビルズ・ダイスの力を信奉する気になれなかった。

 そもそも桁が九桁だとどうして分かったんだ? もしかすると『38061700』で三千八百六万千七百円かもしれないじゃないか。あるいは『3806170』で三百八十万六千百七十円とか。もし上限が四億円だと知らなかったら、次にもう一回占って《 》が出れば、三十八億六百十七万円という事になるのか? どうも曖昧な透視方法だ。振った人間の主観で好きなように解釈できる。

 ……だが。そんな法地の反論を見越したかのように、才はもう一度デビルズ・ダイスを手に持った。人差し指と中指で『天のダイス』を、中指と薬指で『地のダイス』を挟み、顔の前にかざす。

「ちなみに……たとえ賞金の上限が四億円だと知らなくても、僕は正確に当せん金額を透視する事が出来る。なぜだか分かるか?」

「さぁ」

「ダイスが教えてくれるからさ。よく見ておけ。これがデビルズ・ダイスの恐るべき魔力だ。決して数字の透視を誤らない、悪魔のサイコロの力だ」

 言うなり、才は右手を振るって勢いよくダイスを放り投げた。彩が横たわるベッドを飛び越え、遥か数メートル先まで飛んでいってしまう。

 馬鹿、何をやってるんだ。締め切った個室だから失くす心配はないけれど……あれじゃサイコロの目が見えないし、わざわざ立ち上がって取りに行かなくちゃいけない。何だってあんなに力任せに投げたんだ?

 仕方が無い、と法地が立ち上がろうとした瞬間。

 何かが彼の眼前を横切っていった。

「え?」

「どうだ? これがデビルズ・ダイスの力だ。もはや透視する数字が残っていない場合。或いは何らかの事情で透視が出来ない場合。二つのダイスは己の意思で投げた者の手の中に戻って来る。……こんな風にな」

 才が右手を開いた。そこには、彼が勢いよく投げたはずの『天のダイス』と『地のダイス』が、何事もなかったかのように転がっていた。

 手品……か? いや違う。確かにさっき、才はデビルズ・ダイスを投げたはずだ。それなのに今、ダイスは一度も腰を上げていない才の手の中に戻って来ている。まさか本当に、サイコロが自分の意思で投げた人間の手の中に舞い戻ったというのか? そんな馬鹿な?

「信じられないならお前がやってみろ。デビルズ・ダイスは、その能力を知る者であれば誰にでも扱う事が出来る。来週のロットーくじの一等当せん金額。そいつを念じながらサイコロを振ってみることだ。結果はもう分かっているがな」

 これもデビルズ・ダイスの実験の一つなんだろう。第三者が二つのダイスを振って、同じ結果が出せるか否か。その実験の追試だ。

 デビルズ・ダイスの実験には協力者が必要なものもある。二人で行うもの。協力者のみが行うもの。ダイスの効力を信じていない人間が、使い方を教えられただけで能力を引き出せるかどうかも調べなくてはならない。今日のテストで法地に『天のダイス』を貸したのもそれが主な目的に違いない。

 才から二つのダイスを渡された法地は、半信半疑のままサイコロを床に転がした。出た目は、《 》と《3》。次に手のひらに落としてみる。《6》と《2》。やはり同じだ。才が振った時と同じ結果しか出てこない。床に投げようが、手に落とそうが、才の透視結果と寸分違わぬ目しかデビルズ・ダイスは表示しようとしなかった。

《 》と《 》。

《 》と《6》。

《 》と《1》。

《6》と《1》。

 そして、《 》と《 》が三回。

 通して見ると、『380617000』となった。才が振った時と全く同じ。こんな結果が出る確率は数学的にいったいどれくらいになるんだ? 恐らく天文学的確率になるのは間違いないだろう。

 いやここまではまだいい。まだ偶然として片付けることもできなくはない。問題は次だ。次は、もう透視する数字が無かった。もし本当にデビルズ・ダイスが悪魔のサイコロだというのなら、次に法地がサイコロを投げた時、二つのダイスは自動的に手の中に戻ってくるはずなのだ。まさか、そんな馬鹿な。オカルト映画じゃあるまいし、サイコロが勝手に戻ってくるなんて事が実際に起こるはずが……。

 ゴクリと唾を呑み込む法地。ゆっくりと、大きく腕を振って、デビルズ・ダイスを数メートル先の床に転がしていった。当せん金額の透視を願いながら。

 カーペットの上をサイコロが転がっていく。やがてその勢いは摩擦で抑え込まれ、動きもだんだん鈍くなっていった。そうだ。それが普通だ。何も起こるわけが無い。投げられたサイコロはいずれ止まる。勝手に動くはずなんて無いんだ。動くはずが……無いのだが……。

 その刹那。

 ピン、と磁石の反発でも受けたかのように。或いはボタンが弾け飛ぶように。『天のダイス』と『地のダイス』は宙に舞った。動いたのだ。自らの意思で。

「うわっ?」

 そして思わず手のひらを向けて顔をガードする法地の右手の中に――己を放り投げた持ち主の下に、悪魔のサイコロは戻っていった。サイコロが、自分の意思で帰ってきた。自分の……意思、で。

「こ、こんな……馬鹿な……」

 法地は茫然と右手の中のダイスを見下ろした。黒鉄色の半透明のサイコロは、何等の生物的な気配も感じさせることなく、ただ無機質に手のひらに乗っている。

 才の言う通りだった。デビルズ・ダイスは透視する数字が無い場合、自らの意思で振った人間の手の中に戻ってくるのだ。これが悪魔のサイコロの力なのか。なんて……恐ろしい。

 一体誰がこんなものを創ったんだ? そもそも人間がこんなものを創り出せるのか? 外国の遺跡から発掘されたというが……現代科学の常識を遥かに超越する驚異のサイコロだった。こんなものが複数存在するというのなら、古代の文明史観そのものが根底から揺るがされる事になるだろう。

 さすがの法地もここまで来ればデビルズ・ダイスの力を認めざるを得ない。悪魔という表現がオーバーだなんてとんでもなかった。これはまさに悪魔の力だ。確実に数字を透視し、しかも己の意思さえ持っている。

 果たして人間がこんな恐ろしいサイコロを扱いきれるのだろうか。

 あるいは人の手に余るものではないのか。

 もしかすると人間が使うべき物ではないのかもしれない。

 才の父親がどうしてこれを封印したのか、その理由が、やっと法地にも少し分かった気がした。

「……さぁ、それじゃあいよいよ当せん番号を透視するとしよう。三億八千六十一万七千円のカネを来週手に入れるための六つの数字の透視だ。なに、デビルズ・ダイスの力があれば、そんな数字すぐに暴き出す事ができる。楽な話だ」

 愕然となる法地と対照的に、才は悪魔の力の寸分違わぬ発揮ぶりに心底陶酔しているようだった。その表情には何の迷いも戸惑いもない。法地の手からサイコロを受け取り、あたかも悪魔の如き冷徹な笑みを浮かべ、デビルズ・ダイスをカーペットの上に転がしていった。



















《2》 アルファベット



 視聴覚室に入ってくるなり、田沼は不愉快そうな顔を露わにして生徒たちを睨みつけた。どうやら今日も機嫌が悪いらしい。自分の鞄を乱暴に教卓の上に置く。クラス委員長の女生徒が起立の号令をかけると、生徒たちは椅子から立ち上がり、頭の禿げ上がった中年の教師に形式的な一礼をした。授業開始の合図だ。

 今日の昼休み、またしても日本史の授業が視聴覚室で行われる事が伝えられ、二年一組の生徒たちはいそいそと教室を移動させられたのである。これで三回連続の手抜き授業。いくら田沼が三流教師とはいえ、この連続記録はちょっと珍しかった。

 昨晩呑み過ぎて二日酔いなのだろうか。それとも奥さんと喧嘩でもしたか? 田沼が不機嫌なのは特に珍しくも無かったので生徒たちは気にしなかったが、今回の原因は別にあったようだ。昨日のテストを返す……と田沼が鞄から答案用紙を取り出した時、それがはっきりと分かった。

「……今回は満点が二人いる。一人はまぁ、言わんでもわかるだろう。当然、白河だな」

 クラスメイトの間からどよめきが漏れる。感嘆というか、当然というか、そんな雰囲気が漂った。一週間の入院というブランクがあっても成績には全く影響しない。さすがは白河才。席を立って答案を取りに行く才の姿を、クラスの連中は羨望の眼差しで見つめていた。

「よく頑張ったな。さすがだ」

「田沼先生の教え方が良いからですよ」

 さりげなくお世辞を交えて教師の機嫌をとることも忘れない。これが誰からも好かれる理由だろう。特に田沼のような単純な人間には、こんな見え見えのセリフでも絶大な効果を発揮した。

「さて、もう一人満点を取った生徒だが……」

 とはいえ、そのお世辞の効果も、もう一人の満点獲得者の名前を読み上げる事であっけなく霧散してしまった。もう一人の満点。それは言うまでも無く、悪魔のサイコロの力で解答したあの男であった。

「山寺法地、お前だ」

「よっしゃぁぁっ! 来たぁぁぁっ!」

 ばね仕掛けの玩具のように椅子から立ち上がる。クラスメイトの間からはやはりどよめきが漏れたが、才の時と違って驚愕というか意外というか、有り得ない事態に困惑する戸惑いにも似た空気がひしひしと伝わってきた。山寺ぁ? 何かの間違いだろ? そう言いたげな視線を一身に浴びつつ、しかし本人は全く気にする事も無く、意気揚々と答案を取りに行く。

 いつもほとんど必ず最後に名前を呼ばれる劣等生が、今日はクラス一の秀才と同じ扱いを受けているのだ。昨日、デビルズ・ダイスの力をまざまざと見せ付けられ、こうなる事は予想済みだったとはいえ、やはりテストで満点を取るというのは実に気分がいい。してやったりといった顔で田沼の前に立った。

「ウソでしょ……法地の奴が満点なんて。どうなってんの?」

 後ろの席の加茂香奈も言葉が出ない。法地と入れ違いに席に戻った才は、肩をすくめて首を傾げて見せた。

「ま、法地は自分が思っているほど馬鹿じゃないからね。やればできるって事だろう。……他人からそう評価してもらえれば、の話だけれど」

「え? 白河くん、それってどういう……」

 才の懸念は見事に集中した。満面の笑みで満点の答案を受け取った法地に対し、田沼は刺々しい口調でこう言い放ったのだ。

「全く……上手くやったもんだな!」

「はぁ?」

「とぼけなさんな。どうせ隣の席の白河の答案を盗み見たんだろう。それとも消しゴムの裏にでも年号をメモしておいたか? いくらろくな点が取れないからといって、カンニングとは救いようの無い奴だ!」

「お、おいちょっと待てよ!」

 満点を取ったとしても、それが必ずしも良い評価に繋がるとは限らない。むしろ他人からの評価というのは、その人が何を行ったか……それのみで決められるものではなく、今まで何をしてきたかという実績と重ね合わせて判断されるものだ。

 法地のような劣等生は初めから色眼鏡を通して見られてしまうから、テストで満点を取っても、実力で頑張ったとは誰も思ってくれなかった。田沼のように不正行為を働いたと考える方が自然だ。……それに今回は正真正銘、デビルズ・ダイスという不正行為で満点を取ったのだから、まぁ言い逃れはできないだろう。

「実力を試すテストでカンニングして、それでお前は満足か。卑しい生徒だなぁおい。それとも入試に向けてカンニングの練習でもしていたか?」

「な、何だよ……証拠もねぇのにそんな言い方すんのかよ!」

「証拠なんぞいらんわ。お前のような素行の悪い生徒のやる事などすぐ想像できるからな。こんな奴が進学クラスにおると、我が校の進学率が下がってしまって敵わん」

 まさかこういう展開になるとは。満点を取って田沼の鼻を明かしてやろうと思っていた法地としては、とんだ計算違いだった。確かに理屈で考えれば予想できた事かもしれないが……。

 黒ぶちの眼鏡をずり上げつつ、さらに田沼が追い討ちをかける一言を言い放つ。

「こんな出来損ないの息子を持って、親御さんもさぞ大変だろうな!」

 親御さん……。親、だって?

 それまではどうにか罵倒にも耐えていた法地だったが、この一言は我慢の限度を突き破るには十分過ぎた。

「うるせぇ! 親は関係ねぇだろ!」

 いきなり田沼の胸倉を掴み上げる。

「てめぇに何がわかんだよ! 親父が何だってんだ、俺は俺だ! いちいち比べてんじゃねーよッ!」

 噛み付かんばかりの勢いで歯を剥き出しにする法地。さすがの田沼も一瞬気圧されたようだったが、冷や汗をどっと噴き立たせながら、それでも負けじと早口でまくし立てた。

「な、何だね君は! 教師に暴力を振るうつもりかね! そんな事をしてみろ、き、君は今すぐ退学だぞ! 傷害罪で訴える事だってできるんだからな!」

「この……野郎ォ」

「ふん、何か不都合があるとすぐ暴力か。これだから最近の若いモンは……親の躾がなっとらんな!」

 法地はギリリと歯を食いしばった。定年まであと数年のこんな中年男など、力任せに殴り飛ばすのは簡単だ。顎の骨をへし折ってやる自信だってあった。こいつが教師でさえなければ……。街ですれ違ったサラリーマンの中年だったら、ぶん殴って財布の一つでも盗ってやれるのに。教師と生徒という絶対の関係がある以上、手出しはできない。それが分かっているから田沼も横柄な態度に出るのだ。

 まして法地は普段の素行も悪い。満点を取っただけでカンニングと決め付け、口汚い言葉で罵った田沼にも非はあるが、ここで暴力沙汰になれば、目撃者のクラスメイトたちがどちらの味方につくか大体の想像はついた。よほどの事情が無い限り、先に手を出した方が悪い。いわゆる社会のルールというやつだ。

「……法地」

 自分の席から、才が一言、そう呼びかける。

 それだけで効果は絶大だった。法地はハッと我に帰り、忌々しげな視線だけは残しつつも大人しく両手を離した。自分の答案を鷲掴みにして自分の席に戻っていく。たった一言でこれほど見事に法地の感情をコントロールするとは……さすが親友と言うだけの事はある。

 一方の田沼も、目前の恐怖から逃れられた事に胸を撫で下ろしつつ、しかし小学生のように捨てゼリフで悪態をつく事も忘れなかった。

「不良生徒めが……この科目の成績をつけるのはワシだぞ! それを忘れるな!」

 ネクタイを直しながら吠え立てる。一言も言い返すことができず、法地は無言で席に着いた。今の彼にできるのは、小声でグチを漏らしながら鬱憤を晴らす事だけだ。

「ちっくしょう……田沼の野郎、もう絶対ぇ許さねぇ。卒業したらギタギタにしてやるからな!」

「卒業まで待ってやるのか? 思ったより気が長いんだな」

 法地のグチに、才が意外な言葉で応じてきた。訝しげに隣の席の親友を見つめる法地。一息ついた田沼が、残りの生徒たちの答案を次々と返し始めたため、視聴覚室内はざわついている。二人の会話が他のクラスメイトに聞かれる心配はまず無いだろう。

「どうせなら今すぐ仕返ししてやればいい」

「簡単に言ってくれるなオイ。それができりゃ苦労しねぇよ。だいたい、お前が田沼の鼻を明かしてやれるっていうからデビルズ・ダイスを使ったんだぜ? それなのにこんな事になるなんて……」

「少し考えれば予想のできる事だろう。前回十八点の生徒が今回百点を取って、誰が実力を発揮したと考える? 少しくらいわざと問題を間違えるとか、その程度のカムフラージュはしておくべきだったな」

 予想のできる事……と言うのなら、もしや才はこうなる事が分かっていながら法地にデビルズ・ダイスの使用を勧めたのだろうか? 法地が恥をかかされることを承知で使わせたと?

「お前……」

 何か言いかける法地の言葉を手で抑え、才が不敵に微笑んだ。

「まぁ、僕としても親友が罵られるのを見るのは耐え難い。あの教師の手抜き授業にはほとほと呆れていた事だし、ここらで一つ灸を据えてやろうじゃないか。デビルズ・ダイスの力でな。安心しろ、既にもう手は打ってある」

 デビルズ・ダイスの力で灸を据える?

 一体どうするつもりだろう。確かにデビルズ・ダイスの力は本物だ。あれはまさしく悪魔のサイコロ。しかしデビルズ・ダイスの能力は任意の数字を透視するだけで、それ以外に何か特殊な能力は持っていなかったはず。テストの答えを透視するとか、宝くじの番号を透視するとか、せいぜいそれくらいしか使い道は無いと思うのだが……何の手を打ったっていうんだ?

 法地の疑問はすぐに解けた。才はこうなる事を予想して、もう既に昨日のうちから……いや正確には入院していた時から準備を整えていたのだ。

 昨日のテストを返却し終え、田沼は今日のテストを配り始める。解答時間は二十分。このテストが終わる頃には授業時間の大半が過ぎていて、残りの時間は映像ソフトを授業終了まで流すだけという、素晴らしい手抜き授業であった。しかもDVDのセッティングまで生徒にやらせるのだ。田沼はもうパイプ椅子に座り込んでいびきを立て始めている。

 二十分後、クラス委員の女子生徒の合図でテストが回収された。それからいつも通り、田沼の用意した映像ソフトをDVDプレーヤーにセット。普段と変わらない、いつも通りの授業風景だ。

 ……そう、次の瞬間までは。

 トールケースを開けた女子生徒が微かにその動きを止めた。中に入っているDVDが、普段と違って白無地のレーベルになっていたからだ。何か記号のシールも貼ってある。いつもはソフトのタイトルが印字されているはずなのに……。

 とはいえ気にかけるほどの事でもない。早くしろよ、というクラスメイトたちの視線を一身に受けた女子生徒は、そのままDVDをプレーヤーにセットし、迷うことなく再生ボタンを押した。

 天井に複数設置されているモニターが一斉に明かりを灯す。程なくしてブルーバックの後、本編の映像に切り替わった。昨日は確か大化の改新の辺りだったから……今日は奈良の大仏でも出てくるのか? 資料室の映像ソフトは予備も含めて同じソフトが三本用意されており、どのソフトを流すかは田沼の気分次第だ。授業の進行ともあまり関係ない。この前などはいきなり鎌倉幕府が出てきてみんな面食らった事さえある。

 しかし、今日流れた映像は平安京でも応仁の乱でも無かった。どこかの高校のブレザーに身を包んだ、画質の悪い女子高生の映像。法地の顔が蒼ざめる。

「げ……。お、おい才、あれってもしかして……」

 けれど才は至って平静だ。

「ほう、日本史のソフトにしては珍しい映像だな?」

 そ知らぬ顔で言い放つが、白々しいにも程がある。この映像は昨日、才が法地から借りた……裏とか無修正とかいう、あのいかがわしいDVDの内容そのものなのだから。ディスクを入れ替えたのか? いつの間に?

 今日の授業を視聴覚室で行うと知らされたのは昼休みだし、映像ソフトを資料室に取りに行ったのは田沼自身。すり替える暇など無かったはずだ。もしチャンスがあったとしても、後で疑いをかけられる危険がある。才がこんな下らないイタズラのためだけに大きな危険を冒すとは思えなかった。

 法地が考えを巡らせている間にも、モニターの中の映像はどんどん進んでいく。まずいぞ、あれは確かダイジェスト編集された作品だから、最初からクライマックスになってるはず……。

 案の定、モニターの女子高生は撮影している男の指示でどんどん服を脱ぎ出していった。さすがに他のクラスメイトたちも事態の異常に気づき、騒ぎ始める。クラス委員の女子生徒が慌てて止めようとするが、最前列に座っていた男子たちがそれを咎めた。

「何だよ委員長、なんで止めるんだよ?」

「だ、だって……」

「田沼先生が言ったんだろ? このDVD見とけってさ。だったら授業が終わるまで、勝手に止めちゃ駄目だぜ?」

 映像は早くも男女の絡みに移っていた。モザイクのかかっていない露骨な映像がどんどん流れていく。男子は手を叩いて囃し立て、女子は口を押さえて悲鳴を上げる。しかし内心は興味あるのか進んで映像を止めようとする者は無く、程度の差はあるにしろ、みんな自分の席でじっとモニターを凝視し続けていた。

「やだー、何あれ。援交とかのビデオでしょ? 何であんなの資料室のソフトに混じってるわけ?」

 法地の真後ろの香奈も、顔をしかめつつ視線はしっかりとモニターを捉えていた。

「やれやれ、田沼先生も好き者だなぁ。ああいうのが好みなんだろう。けど学校に持ち込んだ上に授業の教材と間違えるなんて、ちょっと酷いな」

 抜けぬけと才が言い放つ。ふだん資料室には鍵がかかっており、職員室の棚から鍵を持ち出さない限り、中に入る事はできない。しかも日本史の授業をいつ視聴覚室で行うのか、どの映像ソフトを使うのかは田沼一人が決めている事だ。

 どうしてこんな状況になったのか。普通に考えれば、才が言った通りの結論に到達するのが自然だった。法地が小声で耳打ちする。

「大丈夫なのかよ才? こんな真似してもしお前の仕業だってバレたら……」

「心配するな。僕が資料室に入ったのは今日の朝だけ。疑われる危険は無い。要は田沼の評判を落とすことができればそれでいいんだ」

 入れ替えたDVDは、指紋を拭き取ったケースに入れて資料室の棚の隙間に置いてある。たとえ才が資料室に入った事が疑われても、それは朝の一回だけなのだから、その時点で今日の授業が視聴覚室だと誰も分からない以上、問題視されまい。まして同じ物が複数存在するソフトの、いったいどれを田沼が使うかなど予測する事は不可能ではないか。後で調べればわかる事だが、ディスクを入れ替えたのはあれ一つだけ。他は一切手をつけていないのだ。

 生徒たちの騒ぎ声を耳に留め、ようやく田沼が惰眠から目を覚ました。モニターを見るなり「なんじゃこりゃぁ?」と呆然となる。画面では女子高生と男性の生々しい絡みが映し出され、接合部までもが無修正でアップになっているのだ。

 慌ててプレーヤーを操作しようとするも、普段から生徒に任せっきりだったことが災いし、どのボタンを押せば停止できるのか見当もつかない。

「く、くそ! どうやったら止まるんだ?」

「先生違います! それは音量ボタンです!」

 その途端、DVDの女子高生の嬌声が、ボリュームを上げられた大音量でスピーカーから飛び出した。視聴覚室はおろか、廊下を通して他の教室にまで届く音量だ。たとえ今回の騒動が二年一組の中だけに納まったとしても、人の口に戸は立てられない。いずれすぐに噂は広まり、田沼は高校教師でありながら女子高生モノのDVDを学校に持ち込んでいたと、まことしやかに囁かれるだろう。

 学校側も田沼は問題のある教師として認識しているだろうし、今回の騒動はいい処分の口実になるはずだ。指導力不足教員の烙印を押されれば休職・研修・異動といった措置が取られるかもしれない。まぁ、ちょっとしたイタズラの成果としては上出来だった。

「ヘ、ヘヘ……ざまぁねぇな田沼の野郎。見ろよあの慌てっぷり。いい気味だぜ」

 ついさっき田沼に恥をかかされた法地としては、まさに胸のすく思いといったところだ。他のクラスメイトたちも、今はもうモニターの映像より田沼の狼狽ぶりを指差して喜んでいた。みんな大なり小なり、あの三流教師の手抜き授業には辟易していたのだ。田沼の無様な姿に手を叩いて喜び、法地も一緒になって歓声を上げた。

 ただ一人、今回の一件を仕掛けた才だけは、つまらなそうに机上の教科書をパラパラとめくっていたが。

 進退窮まった田沼は何を思ったのか、突然教室のドアを開けて廊下に飛び出した。振り向きざまにどもりながらまくし立てる。

「い、いいか! 今日の授業は自習だったんだ! わかったな、わしはテストを返した後に用事があって教室を空けた……そ、そういうことにしておけ! わしは知らん! わしは関係ないぞ!」

 そんな偽証に協力してくれる生徒がいるとでも思っているのだろうか。田沼は遁走しようと駆け出すが、足をもつれさせてそのまま派手にすっ転んでしまった。もろに顔面を廊下にぶつけ、鼻血を押さえながら四つんばい同然で逃げ出していく。その背中に浴びせられる生徒たちの嘲笑。

「やだサイテー、田沼ってああいう眼であたしら見てたのね!」

 法地の真後ろでそう呟く香奈の声が、今後の三流教師の行く末を物語っていた。



         *



「いやー、しかし最高だったな! あの田沼のツラ!」

 学校からの帰り道、法地はそう言って声を上げて大笑いした。昨日の放課後とは大違いだ。校門を抜けて繁華街に入っても、まだ思い出し笑いをしては一人で腹を抱えている。肩を並べて歩く才としてはさすがに人目が気になるところだった。

「聞いたところじゃ、田沼の野郎、放課後さっそく校長に呼び出し喰らったらしいぜ?」

「そうか。それは良かった」

「今回のイタズラのためにお前、わざわざ俺からエロDVD借りたんだな。まったく、入院してた時からこうなる事を予想してたとは、恐れ入ったぜ」

「他人などしょせん僕の期待通りにしか動かない。行動パターンを読むのは簡単だ」

 虫垂炎の手術で山寺総合医療センターに入院していた時から、既に才は、デビルズ・ダイスの秘密を法地に話し、協力者として仲間に引き込むつもりでいたのだろう。そして実験のために法地がいつも悩まされている日本史のテストでデビルズ・ダイスを使わせる。当然、法地は満点を取れるが、田沼が素直に褒めるはずも無く、結局カンニングの疑いをかけられて罵倒される事には変わりないはずだ。だからその報復として田沼に罠を仕掛けておこう……。

 そこまで考えて、才は見舞いにやってきた法地に無修正のDVDを貸してくれるよう頼んでいたわけだ。恐ろしいほどに先の先まで読んで行動する男だった。……となると今回のイタズラも単なる報復というだけでなく、何か別の目的も含んだ上での行動だったのだろうか。滅多に表情を変えない才の横顔からは何も読み取る事はできなかった。

「けどあのDVDは惜しかったな。こんな事ならパソコンでコピーしとくんだったぜ」

 法地の唯一の心残りは、才に貸した無修正DVDが取り戻せない事だ。ネット通販でこっそり購入した品だからまた買い直せばいいだろうが、学生の財布には結構な負担である。ゲームセンターのアルバイトだって大した収入にはならない。

「けち臭い事を言うな。どうせ来週になれば、僕たちは億万長者なんだぞ? あんなDVDくらい何百枚でも買えばいい。何なら生身の女だって買えるじゃないか」

「生身って……お前、その顔でよく言えるよな。そういうストレートな表現」

「事実は事実だ」

 少女漫画にでも出てきそうな甘いマスクを持ちながら、才は眉一つ動かさずに生々しい言葉を言い放つ。これくらい図太い神経をしてないとデビルズ・ダイスは扱えないのだろう。

 話しながら商店街に入っていった二人は、ある店の前で足を止めた。才が入り口を顎で指し示す。

「ここがそのインターネットカフェだ。少し付き合ってくれ」

 どこにでもありそうな、パソコンが利用できる普通の喫茶店である。放課後、才はインターネットカフェに寄りたいと言って、法地に付き合うよう頼んできたのだ。自宅にパソコンが無いらしいから、ネットで調べたい事でもあるのかと思っていたのだが……。

 インターネットを使いたいだけなら、目城高校にもパソコンルームがあったはずだし、公設の図書館でも利用は可能だろう。けれど才はわざわざお金を払ってこの店のパソコンを使いたいらしい。不特定多数の人間が利用するから……か? 何か匂うな。

「いいけど、今日はゲーセンのバイトが入ってるんだ。長居はできないぜ?」

「手間は取らせない。デビルズ・ダイスの実験をするだけだ」

 また実験かよ。内心面倒に思いつつも、田沼の一件がデビルズ・ダイスの力のおかげだと言われている以上、法地も無碍には断れなかった。だいたいどうやってダイスの力で田沼を陥れたのか、そこも興味がある。

 受付で手続きを済ませ、店員に案内されて個室の一つに入った。本来なら利用できるのは一人だけだが、友達にパソコンを教えるから……と頼み込んでどうにか二人で入室させてもらったのだ。男二人で椅子一つしかない個室に入るのは暑苦しいが、隣の人に会話を聞かれかねないオープンシートを利用するわけにもいかないだろう。法地は立ち見で我慢である。

 パソコンの電源を入れ、ブラウザが立ち上がると、才は卓上に二つのデビルズ・ダイスを揃えて並べた。

「さて……ではまず田沼の件の種明かしをしようか。そんな大げさな事でもないけどね。僕はこのダイスを使って今朝、五時間目の日本史が視聴覚室で行われると透視する事が出来たんだ。正確には『地のダイス』だけを使って」

「『地のダイス』だけ? そっちの数字は確か《 》から《3》までだよな」

「数字の目は使わない。ほら見てみろ、『地のダイス』には《○》と《×》という記号の目があるだろう? こいつを利用するのさ。父さんもこの記号の利用には頭をひねったらしい」

《○》と《×》。アルファベットのオーとエックス、或いは数字のゼロと乗算記号にも読めるが、やはりここは普通『マル』『バツ』と解釈すべきだろう。デビルズ・ダイスを創った者は、いったいどういう意図で『地のダイス』にこんな記号を組み込んだのか。

 二つのサイコロで0から9までの数字を表現するためには、『天のダイス』の六つの目と、『地のダイス』の四つの目がどうしても必要だ。ところが《○》と《×》は数字の表現には一切必要ない。余った二つの面に、《 》と区別をつけるため《○》《×》と書き込んだだけではないのか?

「確かにそれもあるな。だがここで注意しなければならないのは、デビルズ・ダイスには『正しい使い方』なるものが存在しない、という事だ。父さんが発掘した時、別に取扱説明書が一緒に埋まっていたわけじゃない。二つを組み合わせて数字を表現するという使い方だって、目の振り方を見て父さんや僕が勝手に想像しただけだ。……けど、それでいいんだよ」

「はぁ?」

「それでいい。勝手に使い方を想像する、それこそがデビルズ・ダイスの『正しい使い方』だって事さ」

 考えてみれば数字の表現だって、何も7を《6》《1》と組み合わせなければいけない決まりは無い。《3》《4》の方がいいと思うなら、振る人間がそう決めればいいだけの話だ。《6》《1》だろうと、《3》《4》だろうと、或いは《6》《○》で7を表す、と決めることだって可能だった。サイコロを振る人間が数字を読み取る事ができればそれでいいのだから。

 ただ7を《6》《○》で表現し、8を《6》《×》と表現したら、9を表すための分かり易い目の組み合わせが思いつかないだろう。だから単純に《6》《1》で7と決めた方が透視しやすいというだけの話だ。

「同様に、《○》と《×》の使い方も振る人間が自由に考えていいんだ。例えば……今日の日本史の授業が視聴覚室で行われる。マルかバツか? ってな具合にね」

「マルバツ占い? そうか、それもサイコロの目を使った一種の透視になる。全ての目が均等の確率で出てくる普通のサイコロと違って、デビルズ・ダイスは透視に不必要な目は絶対に出てこないんだからな。単純な二択の占いってわけだ」

「父さんの実験によれば、ある程度具体的な問題でないと透視はできないらしい。数字を透視する時と同じように、占えない時はサイコロが手の中に戻ってきてしまうんだ。例えばそうだな……田沼先生はお金を持っている。これを占ってみよう。《○》か《×》か」

 才はゆっくりと『地のダイス』をキーボードの前に転がした。しかし何度か回転した後、サイコロは勢いよく跳ねて才の手のひらに返ってきてしまった。占う内容が抽象的過ぎて透視できなかったのだ。

「こんな具合にね。単にお金を持っている……だけじゃ、財布の現金を指しているのか銀行の口座を指しているのか、あるいは車や不動産も含めた全財産なのか、判然としない。どれくらいの量で『持っている』とみなすのかも問題だしな」

『地のダイス』のこの能力を使い、才は朝の時点で視聴覚室での授業を予測できた。今日の日本史の授業が視聴覚室で行われるのか否か――それさえ分かれば後は簡単だ。

 何食わぬ顔で資料室の鍵を借り、指紋が付かないよう白手袋を着けた上でDVDをすり替えるだけである。映像ソフトの第何巻を、そして予備も含めた三点のうち、どれを田沼が授業で使うのか……それは全てのDVDに通し番号を付けてデビルズ・ダイスで占えばすぐに分かることだった。

 デビルズ・ダイスは数字を透視する事しか出来ない。これは欠点でもあるが、同時に最大の武器でもあるのだ。数字しか透視できないのではなく、数字ならば完璧に透視できる。そう考えれば、後はサイコロを振る人間の頭の使い方次第だった。上手く使えばどんな不可能さえ可能にできる。非合法さえ合法になるのだ。

「そうだ、非合法さえ……合法に」

 マウスをクリックし、才はインターネットにアクセスした。同時に『地のダイス』を指でつまみ、法地の目の前に突きつける。

「今度はもっと具体的に占おう。田沼先生は銀行口座を持っている、とな。やってみろよ」

「俺が?」

「お前が透視しないと第三者実験の追試にならないだろう。要領は数字の透視と同じだ」

 才はあくまで父親のメモしたノートの実験を全て追試するつもりらしい。法地がデビルズ・ダイスの秘密を教えてもらったのもその為なのだから、文句は言えまい。指示された通り、田沼が銀行口座を持っている……と念じてサイコロを振るった。デスクの上を転がっていく『地のダイス』。卓上を踊ったサイコロは、《○》の目を上にして静止した。

「ではその銀行口座はインターネットサービスも可能か?」

 もう一度法地がダイスを投げる。結果は《○》。

「どこの銀行だ? ジャパンネット銀行か?」

《×》。

「UFJ銀行か?」

《×》。

「みずほ銀行?」

《×》。

「ならば……富岡銀行はどうだ?」

 サイコロが転がっていく。今度は、《○》が上になった。

「なるほど。僕が透視した通りだな。やはりデビルズ・ダイスの力は人を選ばず、誰にでも扱えるものらしい」

 見るとパソコンの画面には、検索サイトで調べた富岡銀行のホームページが表示されていた。才には最初からこうなる事が分かっていたのだ。

「わざわざインターネットカフェまでやって来てそんな事を調べて……いったいどうするつもりだ?」

「さぁ、どうするつもりなのかな? 田沼先生は富岡銀行に口座を持っていて、しかもインターネットサービスも可能だという事が分かった。そして今、目の前には富岡銀行のホームページが開かれている。この状況ならやる事は一つ。そうだろう?」

 才はマウスをクリックし、ログインページを開いた。口座番号とログインパスワードを入力して下さい、と画面に表示される。どちらも何桁にも及ぶ数字だから、当てずっぽうに入力したところで、まず絶対に正しい番号は予測できない。宝くじに当たるくらいの確率をクリアすれば偶然ログインできるかもしれないが……。

 そうか、数字の並びか。

 法地はゴクリと唾を呑み込み、額に浮かぶ汗を拭った。……こいつ、まさか。今までの話の流れを把握すれば、もう誰だって才の意図は予見できる。銀行口座。ネットサービス。口座番号。ログインパスワード。そして、デビルズ・ダイス。

「才、お前なら……」

「ああ、そうだな。口座番号は数字だけだから透視するのも簡単だ。実を言うと日本史の授業中に占っておいたんでね、頭の中にメモしてある。1538の……」

 全く躊躇することなく、才はキーボードを叩いて口座番号を入力していった。

「おいよせ! これはちょっと洒落にならねぇぞ! エロDVD流して恥かかせるのとはレベルが違う!」

「おいおい、何か勘違いしてないか? 僕はただサイコロで占った数字を入力しているだけだ。何も悪い事はしていない。そうだろう?」

「けどお前……」

「他人の口座番号を調べたり、無理に聞き出したり、財布からキャッシュカードを盗んだりするのは犯罪だ。見つかれば罪に問われるし、見つからなくても倫理的にしてはいけない事だな、人間として」

 けれどサイコロを転がして占った数字を、パソコンの画面に入力するのは犯罪ではない。刑法、特別法、自治体の条例、果ては学校の校則にだって、サイコロの数字を口座番号として入力してはいけないという文言はどこにも書いてない。

「もしかして、このサイコロで占った口座番号が田沼先生の口座番号と『偶然』一致するかもしれない。けれどそれはただの『偶然』だ。お前が日本史のテストで満点を取ったように、僕がロットーくじの番号を応募したように、何の非合法的要素も含まれてはいない。違うか?」

「そ、それは……。そう、かもしれないけど」

 確かに法律上でなら、その考えは正しい。

 犯罪とは、刑法その他の刑罰法規の規定により刑罰を科される行為を指す。刑罰法規にそもそも規定が無ければ、犯罪として成立しないのである。警察は犯人を逮捕できないし、仮に逮捕したとしても検察は起訴に持ち込めないだろう。強引に起訴して裁判にかけても、根拠となる刑罰法規の規定が存在しないのだ。有罪判決を受ける可能性は極めて低い。というか、裁判そのものが成立しないはずだった。

 デビルズ・ダイスは非合法を合法に変える力さえ持っている。

 本来ならば犯罪となる行為すら、デビルズ・ダイスを上手く利用すれば、結果的に犯罪として成立させずに遂行する事ができるのだ。

「もちろんこれはログインする時の話であって、実際に預金を引き出す場合はまた話が変わってくるわけだが……それより問題はパスワードだな」

 口座番号を入力し終えた才は、次にカーソルをログインパスワードの入力欄に移動させた。問題はここだ。全て数字で構成される口座番号と違い、パスワードにはアルファベットと数字が混ぜられている。口座番号のように簡単に透視する事は難しかった。

「な、なるほどそうか……そうだよな。いくらデビルズ・ダイスでも数字以外を透視する事はできないもんな。ハハ、ちょっと焦っちまったぜ。マジでログインできたらどうしようって思ってよ……」

 法地が引きつった笑みを浮かべる。越えてはいけない一線をどうにか踏みとどまった。そんな安堵感が胸に広がっていく。だが才の表情は至って冷静だ。

「父さんもそれは悩んだようだ。最終的には、デビルズ・ダイスで数字以外は透視できない。そう結論付けている。数字を透視する能力を調べ上げるだけで手一杯で、時間的に他の能力を調べる余裕が無かったんだろう。『財団』に気づかれる前にダイスを封印する必要があっただろうしな」

「気付かれる……前に? なんだよそれ」

「法地、お前携帯電話は持っているか?」

 親友の問いには答えず、才は逆に質問を切り返してきた。そういえば才はパソコンや携帯電話を持っていない。親が持たせてくれないそうだ。まぁ今時の高校生には珍しいかもしれないけれど、学校での人気ぶりから考えればその判断は正解だろう。一日中ファンからの電話やメールの攻勢にさらされたらたまったもんじゃない。

 戸惑いながらも法地は学生服の内ポケットから、折りたたみ式の携帯電話を取り出して才に渡した。誰かに電話をかけるのだろうか。いや違う。今はデビルズ・ダイスの説明をしている最中だ。才はその言動の一切に無駄がない。これもダイスの能力を説明するための、何か別の意図が隠れているはずだった。

 才は受け取った携帯を開くと、内側の大きなディスプレイと数字の書かれたプッシュキーを法地に向かって掲げた。

「いいか、デビルズ・ダイスは数字しか透視できない。これは絶対の条件だ。しかし考え方を変えれば、数字でありさえすれば確実に透視できるとも言える。つまりアルファベットを直接透視するのではなく、アルファベットを数字に置き換えて表現すれば、透視する事も可能となるだろう。こんな風にな」

 携帯電話のプッシュキーには、数字の他にそれぞれアルファベットが割り振られている。

 2のキーにはABC。

 3のキーにはDEF。

 4のキーにはGHI。

 5のキーにはJKL。

 6のキーにはMNO。

 7のキーにはPQRS。

 8のキーにはTUV。

 9のキーにはWXYZ。

 別に携帯電話のキー配列に倣う必要は無いが、使用頻度の低い並びを四文字にするなど、かなり効率を考えた配列になっている。また携帯電話を持っていれば、このキー配列を解読表代わりにしてスムースに透視する事が出来るはずだ。

「アルファベットを占う時は、まず一回目に数字を透視して目的のアルファベットが何番目のグループに属するか調べる。次にもう一度数字を占い、今度はグループ内の何番目の文字なのかを透視する。さらに大文字小文字を区別したい時は、『地のダイス』で占えばいいだろう。《○》が大文字、《×》が小文字といった具合にな」

 これならば数字しか占えないデビルズ・ダイスであっても、アルファベットを透視する事が可能のはずだった。才の父である和歳の研究ノートにも無かった使い方だ。上手くいくかどうかはまだ分からない。

 またパスワードには#、?、@といった記号も組み込む事ができる。これはかなり厄介で、デビルズ・ダイスでも正確に透視するのは難しいだろう。とりあえず一回目に《×》が出れば記号だと解釈し、その他の文字を特定してからしらみ潰しに試していくしか方法が無かった。パスワードに記号を組み入れる事を面倒がる人は多いから、相手が田沼であればそれほど心配する事はあるまい。

「試してみよう。まずログインパスワードの一文字目を透視する」

 法地からデビルズ・ダイスを受け取り、才はゆっくりと二つのサイコロを転がした。上を向いた目は、《 》と《1》。アルファベットならこの目の並びは出ないはず。パスワードの一文字目は数字の1と断定していいだろう。

 次は二文字目を占う。《6》と《3》。数字の9か、或いはWXYZのいずれかが候補に残った。引き続き二文字目を念じてサイコロを振る。数字の9であればデビルズ・ダイスは手元に戻ってくるはずだ。アルファベットなら《1》から《4》のいずれかの目が出るだろう。もしそれ以外のアクションをダイスが起こすのなら、根本的にこの利用方法は不可能ということになるが……。

 サイコロが転がる。

 ピン、と飛び跳ね、才の手元に返ってきた。二文字目は数字の9だ。

「かなり手間がかかるな」

「ああ。キー配列を覚えるまでは相当苦労するだろう。たとえ覚えたとしても、即座に透視してその結果を把握するのは難しい。やむを得ないな。緊急時に透視できるのは数字だけだと思っておいた方がいい」

「緊急時、ね」

 同様に透視を続け、三文字目は5、四文字目は4と確定した。並べると、数字で1954となる。1954……。一九五四年、か? 田沼は確か年齢五十過ぎのはず。誕生年と考えれば合点がいった。

「パスワードに自分の誕生日とはな。推測してくれと言っているようなものだ。おかげでこっちも透視はしやすいが……恐らく次はアルファベット。イニシャルか自分の名前か、そんなところだな」

 五文字目。最初に出た目は《6》《1》。次が《 》《4》。二回目にサイコロが返ってこなかったのだから、つまりアルファベットと解釈して問題ないという事だ。大文字か小文字か調べると、《○》と出た。大文字でS、か。

 六文字目は《 》《2》と《 》《1》、七文字目は《6》《2》と《 》《1》……同じ様に、十文字目まで順番に透視していく。いずれも小文字である。十一文字目は存在しないらしく、卓上に転がすとデビルズ・ダイスが跳ね返ってきた。パスワードは全部で十文字だ。

「全てつなげてみると、『1954Satosi』となる。誕生年の西暦に訓令式のローマ字で名前、か。苦労して透視したのが馬鹿馬鹿しいようなパスワードだな」

 愚痴をこぼしながら、才はログインパスワードの入力欄に、透視した『1954Satosi』を打ち込んでいった。これでログインができれば、デビルズ・ダイスでアルファベットも正確に透視できる……と考えてもいいだろう。

 マウスを動かし、ポインタをログインボタンに重ね合わせる。矢印のポインタが人差し指に変わった。

「さぁ、いよいよだぞ。果たしてデビルズ・ダイスでアルファベットが透視できるか否か。世紀の一瞬だ」

 才の言葉は決して大袈裟な表現ではなかった。数字しか透視できないのと、数字とアルファベットを透視できるのとでは、使い道が全く異なってくる。もしアルファベットをも透視できるのなら、デビルズ・ダイスの力はまさに無限の広がりを持つ事になるのだ。果たして、結果は――。

 カチリ、とクリックする。画面が切り替わり、数秒の静寂が訪れた。パソコンがカリカリと微かなノイズを奏でる。

 それから次々と表示されていく画面のメニュー。ブロードバンドといってもこの店はまだ光ファイバーじゃないから、表示は少し遅い。僅かなタイムラグを経てようやく全画面が表示された。見ると左上隅に、小さなフォントで『ようこそ田沼聡志さん』の一文が映っている。個人専用のページにジャンプした証拠だ。

「よし、成功だな。ログインできているぞ」

「マジかよ……」



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